2012年10月22日月曜日

映画史に残したい「名画」あれこれ  外国映画編(その5)



ゴッドファーザー(フランシス・フォード・コッポラ)


瀕死の重傷から生還した一人の男がいる。

影響力の相対的低下という、自らが置かれた厳しい状況がそうさせたのか、或いは、それ までの自分の生き方を、「愚か者」という風に相対化できるほどの年輪がそうさせたのか、それ以外に流れようがない生き方でイタリア系マフィアのボスに上り詰めた男が、重量感のある濁声(だみごえ)で、眼の前にいる三男に静かに吐露していく。

「お前だけには・・・私は生涯をファミリーに捧げてきた。愚か者にはなるまいと。大物に操られて踊る愚か者にはな。弁解はすまい。私の人生だ。だがお前は、操る側の人間になれると。上院議員とか、知事とかにな」

男の名は、ビトー・コルレオーネ。「ドン・ビトー・ゴッドファーザー」である。

眼の前にいる三男の名は、マイケル。

第二次大戦の英雄として復員して来て、家族の稼業とは無縁な若者であったが、ニュー ヨークの敵対組織から命を狙われていた父を救った縁で、ファミリーの跡目を継ぐはずの、長男のソニーの無惨な死によって空洞化した権力を、いつしか、頼りない次男のフレドに代って継承するに至ったという経緯を持つ。

「僕は、別の権力者に」
「だが、充分な時間はなかった」
「なって見せる。必ず」

短い会話の最後に、「最初に会談を持ちかけて来た者は裏切り者だ」と言い添える父は、どこまでも「ドン・ビトー・ゴッドファーザー」という相貌を崩さなかった。

この会話のシーンが挿入されたのは、今や、沸々と滾(たぎ)ってきた長尺な映像が決定的な大団円を迎える直前だった。なぜなら、この会話の直後に、「ドン・ビトー・ゴッドファーザー」の死が待機していたからである。

ゴッドファーザーの情感的な「遺言」を、マイケルが力強く受容してくれた安堵感からか、長男を喪った失意を抑えるために貯留したストレス等々、「王国」の危機の再構築への自給熱量の臨界点を超える辺りまで、その人格総体のうちに背負って きた重荷を降ろすかのように、良くも悪くも、一代の傑物の人生の終焉は、呆気ない幕切れを迎えるに至った。

ゴッドファーザーに相応しい屋敷の広い中庭で、可愛い孫と遊戯の只中に襲ってきた心臓発作の転倒によって、そのまま蘇生することなく絶命したのである。

そこに、権力関係の空洞化が生まれた。それは、国家間規模で言えば、「軍事」の空白の怖さである。紛争の発生のリスクをマキシマムに高めるからだ。イタリア系マフィアのボスの一人の死もまた、この文脈をなぞるものだった。

権力関係の空洞化の間隙を縫って、一気呵成(いっきかせい)に襲いかかって来る敵対組織への予防外交のラインを越えて、父から認知された「自在性特権」の利得も手伝って、二人の兄との知的・人格的乖離の際立つ、戦略的な頭脳の主であるマイケルの反転攻勢が開かれていったのは、先制攻撃を畳み掛けていくという方略だけが組織防衛になるという確信があったからである。

加えて、父の頑健な肉体を壊した者たちへのリベンジを経験したマイケルには、長男のソニーの命を奪った者たちと、掟破りの裏切り者を裁く必要もあった。また、マフィアとの関係において没交渉だったマイケルにとって、「最初に会談を持ちかけて来た者は裏切り者だ」と言い添えた、父の「遺言」を忠実に実践躬行(じっせんきゅうこう)することは、苛烈な人生を繋いできた父の豊富な経験知を合理的に吸収していく知恵でもあった。

現にマイケルは、葬儀中に会談を持ちかけて来た古参幹部(テッシオ)を殺害することで、「ドン・コルレオーネ」というファミリーのボスにまで上り詰めていったのである。それは、父と子の血の宿命の帰結点だったのか。

折しも、妹コニーの赤子の幼児洗礼式の日。

マイケルが赤子の名付け親として、神に誓いを立てていた。幼児洗礼式で、神父の前で誓いをするマイケル。そこだけは、清冽なローマカトリック教徒としての、従順さを身体表現する男を演じるファミリーの新しきドン。

「あなたは主イエス・キリストを信じるか」と神父。
「はい」とマイケル。
「聖霊と聖なる教会を信じるか」
「はい」
「あなたは悪魔を退けるか」
「退けます」
「あなたは悪魔の所業を退けるか」
「退けます」
「その誇示を」
「退けます」
「あなたは洗礼を受けるか」
「はい」
「神と子と聖霊の御名により、平穏と主の恵みを。アーメン」

如何にもローマカトリック教会の幼児洗礼式らしく、赤子の成長を全人格的に支える義務を負う、代父(ゴッドファーザー)となったマイケルの信仰生活の形式的な風景が映し出されていた。

しかし、その清冽な風景が強調されるほど、このシーンとクロスカッティングされる濁り切った風景の欺瞞性は、力の論理で生きる者たちの、愛憎渦巻く、虚構に満ちたファミリーを描く物語の極北的描写であった。言うまでもなく、「神=善=祈り」という宗教的なイニシエーションが、「悪魔=悪=殺戮」という圧倒的な暴力との対比で描かれることで、本作が暴力肯定の映像でないことが判然とするだろう。

ともあれ、この陰翳深い映像は、マイケルの指示によって動くヒットマンたちが、敵対組織のドンらを悉(ことごと)く殺戮していくシーンがクロスカッティングされて、鮮烈に映し出されていく。

「ドン・コルレオーネ」との長い紐帯(ちゅうたい)の関係を保持してきた、クレメンザを筆頭とする男たちの反撃が開かれたのである。命を賭けた者たちの「攻撃的大義・忠義」は、殆ど惰眠を貪る敵対組織のファミリーたちの、脳天気な「防衛的大義・忠義」を蹴散らしていくのだ。

NYでのマフィア相互間の大抗争は、「攻撃的大義・忠義」に拠って立つ者たちの完全なる勝利によって閉じられた。組織の秘密防衛に背馳(はいち)する行為に走った者は制裁するという「オメルタの掟」に抵触した者たちをも粛清していく、マイケルの計算尽くのシナリオの帰結点は、妹コニーの夫であるカルロの抹殺であった。

コニーへのDVで、直情径行のソニーを誘い出すことで、マシンガンの乱射を浴びせて蜂の巣状態にした、敵対組織(バルジーニ)のトラップに嵌め込んだ裏切りへの代償である。当然の如く、この事実はコニーの激怒を誘発し、半狂乱状態にさせるに至った。

それを視認したマイケルの妻ケイもまた、総身に戦慄が走る程の激しい衝撃を受ける。

「本当なの?」

執拗に迫るケイ。

煩わしい妻の追求に、感情を必死に抑えた沈黙の「間」を破って、夫としての「役割」を兼務するマイケルは、威圧的に反応した。

「いいだろう。今回だけ質問に答えよう」

浄化し得ない空気の、言いようのない「間」が生まれる。

「本当なの?」と、繰り返し尋ねるケイ。

ここで分娩された「間」は、夫婦という形式的なカテゴリーに収斂し切れない、一人の人間の拠って立つアイデンティティの、その由々しき安定的確保に関わる時間の圧倒的な重量感を乗せて、闇の空間の限定スポットを占有していた。

「ノだ」とマイケル。

それだけを待っていた者の子供のような感傷を見透かした男と、見透かされた空気を読むことから、敢えて隠し込もうと逸(はや)る女の耐性限界の沸点を、観念の世界で浄化したかのように振舞おうとする、次代の権力者の妻という名の女。

ただ、濁った空気の浄化だけが必要だったのだ。だから、この究極の幻想の人工的な時間に流れ込んでいったのだ。

安堵の表情を浮かべて、夫に抱きつく妻。

「一杯だけ付き合って」

そう言うや、居間に行って、カクテルを用意する妻。

その間、マイケルの周囲に組織の者が集合し、「ドン・コルレオーネ」と言って、丁重な挨拶を繋いでいく。その挨拶に答えるマイケルは、「ドン・コルレオーネ」という、新たなゴッドファーザーの誕生を自認する者の威厳を身体表現するのだ。

「ドン・コルレオーネ」の舎弟の一人が、カクテルを運ぼうとするケイの視界を扉で遮断したのは、カクテルを夫の元に運ぼうとする瞬間だった。

新たなゴッドファーザーの特化された権力空間を占有することで、この屋敷内にも、「オメルタの掟」で心理的に武装された権力関係が存在することを示して見せたのである。

それは、「家族を大事にしない男は、男じゃない」と、かつてソニーに説諭し、「家族愛」の中枢的価値を抱懐して生きてきた「ドン・ビトー・コルレオーネ」の深い情感濃度と切れて、どこまでも理知的に動く新たなゴッドファーザーが成す、こ の夫婦の近未来の暗転を予約させるイメージのうちに、夫婦関係の情緒的な繋がりの限定的推進力の脆弱性を顕在化させた、殆ど完璧なラストカットの構図だった。

陰謀と背馳、裏切りと嫉妬が渦巻く、ファミリーという名の疑似共同体に関わる物語の、この完璧な括りに、観る者は絶句するだろう。

これ程の映像を構築する映画作家がいて、これ程の映像の中で、完璧に演じ切った俳優たちが存在した。それ自身、殆ど奇跡的快挙といっていい。凄い映像としか評価し得ない作品が、ここにあった。

紛れもなく、深く重厚な人間ドラマに収斂されていく圧倒的表現力の、抜きん出て完成度の高い、その構成力と主題提起力による映像構築力の凄みにおいて、アメリカン・ノワールの最高達成点であるばかりか、映画史上に恒久に残る文化遺産である。



隠された記憶(ミヒャエル・ハネケ) 


 「私たちはメディアによって操作されているのではないか?」

 この問題意識がミヒャエル・ハネケ監督の根柢にあって、それを炙り出すために取った手法がビデオテープの利用であった。覗き趣味に堕しかねないビデオテープを、「メディアの真実性を問う」ツールとして巧みに活用し、ミステリー映画として立ち上げることで生み出したものは、今や、「何を伝えたか」という視座ではなく、「何を伝えなかったか」という鋭利な視座が問われている、高度な科学文明の現状を包括している状況を見れば、既にメディアの欺瞞性を問うというテーマの帰趨が鮮明化されている事態をも超えて、ビデオテープによって捕捉された対象人格が、ごく普通に遣り過ごしている虚飾と欺瞞の意識体系の奥深くに封印する「闇の記憶」であった。

 それは、テレビ局という代表的なマスメディアに勤める、人気キャスターの家屋の外貌が、一台の定点カメラで映し出される冒頭のシーンによって開かれた物語の中で、じわじわと執拗に炙り出されていく。同様に出版社というメディアに勤務する妻を持つ、件の人気キャスターの心中で封印している「疚しさ」を、「闇の記憶」から炙り出し、追い詰めて、相対的に安定した日常性を破綻させていくのだ。

ただ、この「疚しさ」が、個人的問題の軽微な何かとして処理されない毒性を持ち、じわじわと現在の〈生〉を脅かしていったらどうなるか。ハネケ監督は、まさにこの類の「疚しさ」が内包する問題に注目し、それをミステリーの体裁を仮構する戦略的映像のうちに立ち上げたのである。

 何より、ハネケ監督にとって、この類の「疚しさ」 が内包する問題とは、「個人の罪と集団(国家)の罪が重なり合う事態」となったときに惹起された心の攪乱であり、それによる、拠って立つ自我の安寧の基盤の破綻の問題でもあった。然るに、「政治的なメッセージを込めた映画」を嫌うハネケ監督は、その由々しきテーマを、いつものように、「個人が『罪』とどう向き合っているかについての映画」に変えていく。それ故にこそと言うべきか、ハネケ監督は、ポップコーン・ムービーの乗りで自作を観る者たちへの、適度な警鐘を打ち鳴らす「悪意」を存分に込めて、このような厳しい映像を突き付けてきたに違いない。

 差出人不明のビデオテープが届く事態に不安を募らせていく、テレビ局の人気キャスターの夫と、出版社に勤務する妻。

 夫の名は、ジョルジュ。妻の名は、アンヌ。

 そこに送付されていた、子供が血を吐く拙い絵。

 更に、今や介護者と共に暮らす実母が住む、ジョルジュの生家を写すビデオテープが届くに及んで、ジョルジュは忘れていた遠い昔の記憶を想起する。そのビデオテープと共に送付されていた拙い絵に描かれていたのが、鶏の頸を切って、鮮血が迸(ほとばし)るものだったからだ。

ジョルジュは重い腰を上げて生家に赴いた。6歳のとき、養子にしていたマジッドを孤児院に送り込んだ過去が、差出人不明のビデオテープの事件に絡んでいると確信したからである。

 その夜、鶏の頸を切断した一人の少年が、傍にいた別の少年に斧を手に向ってくる悪夢を見て、うなされるジョルジュ。前者の少年がマジッドであり、後者の少年がジョルジュであることは、やがて物語の中で判然とする。

間髪を容れず、次に送られたビデオテープに写っていたのは、とある集合住宅の部屋。

そこにマジッドが住んでいると確信したジョルジュは、翌日、その集合住宅に出向いて行った。

 「驚いたな」と部屋の住人。
 「君は誰だい?」とジョルジュ。

 訪問者であるジョルジュが相手に尋ね、尋ねられた相手が訪問者を特定したのである。

 「何が望みだ?金か?」

 途方に暮れるような攻撃性に、言葉を失う部屋の住人。それには答えない部屋の住人=マジッドは、逆にジョルジュに問い返した。

 「よく俺を捜し当てたな?」

 ジョルジュも、それには答えず、「この悪だくみの目的は?」などと畳みかけていく。

 「何のことだか分らない」とマジッド。

 相手の反応によって、既に相手がマジッドであることを確信したジョルジュは、その相手にいきなり、ぶしつけな発問を加えるばかりの不毛な時間が流れていく。

 「いつかはお前に会うと思ってた。俺が死ぬまえにな・・・偶然、テレビを見たんだ。数年前だ、ゲストたちと椅子に座り、顔を近づけて、連中と話していた。確信はなかった。だが、不快な気分になった。不思議だよな。訳も分らず、吐きたくなった。最後に名前を見て、理解できた・・・お前から何を盗ると言うんだ。突然来て、俺が脅迫してると言う。昔と同じだな」

 40年ぶりに会って、相手にそこまで言われても、脅迫を止めろという反応しか返せないジョルジュ。

会話が成立しないのだ。相手が金銭目当てで脅迫してくると一方的に決めつけ、自分の思いのみを押し付ける男だからこそ、脅迫されるに足る偏見居士であるという、歪んだ自我を自覚し得ない脆弱性が、そこにたっぷりと曝されていた。

しかし、事態は最悪の結果を惹起する。


息子のピエロの家出騒動が出来したが、これをマジッドによる誘拐事件と断定したジョルジュは、警察に連絡し、マジッドが住む集合住宅に赴き、そこにいたマジッドと、彼の息子を逮捕する事態に発展したのである。

 拘留されて、大声で喚き続けるマジッド親子。

 事態が容易に収束し得ないこの夜、思わず、ジョルジュは、一人で嗚咽する。ジョルジュの自我もまた、クリティカルポイントに達しつつあるのだ。彼のみが、その内側で必死に秘匿し続ける、過去の暗い記憶に耐え切れなくなったのである。

 翌朝、友人の母に伴われて、ピエロは帰宅する。親に内緒で、友人の家に無断外泊していたのである。マジッド親子は「誘拐事件」とは無縁だったのだ。

 この一件は、最も忌まわしい事態を出来させるに至った。今度は、マジッドがジョルジュを呼び出したのである。

 「何のつもりだ?」とジョルジュ。

 相変わらず、防衛機制のバリアを攻撃的に張るだけの男が、そこにいる。

 「私とビデオは関係ない。お前にこれを見せたくて呼んだ」

 そう言うや、剃刀で自分の喉笛を掻き切って、その場に斃れるマジッド。

 一瞬の出来事だった。血飛沫(ちしぶき)が鮮血の赤に染めていく小さなスポットで、その場で立ち竦んで、放心状態のジョルジュ。

 夜の街を彷徨(さまよ)い、深夜に帰宅するや、ジョルジュは寝室に籠ってしまう。

 「恐ろしいことが起きた」

 マジッドの自殺について話す夫。動顛(どうてん)する妻。

 「彼に何をしたの?」

 二人の関係の根柢にあるものを、今度こそ、妻は問い糺(ただ)すのだ。観念したジョルジュは、妻アンヌへの、事の真相に触れた告白が開かれたのである。

 ジョルジュの、誰にも語ることなく秘匿し続けた、真相の「告白」。言うまでもなく、6歳のときの「マジッド追放」の顛末の真相である。

 61年10月17日に、民族解放戦線が呼び掛けたデモを怖れた仏警察が、200人のアルジェリア人を溺死させた事件に巻き込まれ、ジョルジュの家で働いていたマジッドの両親が犠牲になったことで、マジッドを養子に迎えることになったが、それを嫌ったジョルジュがマジッドに鶏の首を刎ねて殺させたことが原因で、家を追い出されたという真相を、妻に告白するに至った。

 決して忘れ得ない顛末の記憶を封印していたはずの男の自我が、闇のスポットで怯(おび)え、震えている。

 ジョルジュの内面の振幅の様態は悲哀にも見え、内面的に追い詰められたエゴイストの煩悶のようにも見えるが、一貫して変わらないのは、攻撃的に張り巡らしたつもりの防衛機制のバリアの空洞感が露わにされた醜悪さだが、それが、このような立場に置かれた者の振舞いの中で、益々曝され続けていくのである。

この重苦しくも、そこから抜け出すことが困難な「クローズドサークル」の心理劇のインパクトこそ、犯人探しのミステリーゲームを根柢において相対化し切る何かだった。

 ジョルジュの揺動する自我の、その奥深い辺りまで、深々と描き切った映像の凄みに震えが走った程だ。
 
それにしても、ミヒャエル・ハネケ監督。とてつもなく凄い映像を作ってくれたものだ。「神の視線」の投入によるラストカットを、DVDで繰り返し観ながら、その構築力の高さに言葉を失う程だった。



ピアノ・レッスン(ジェーン・カンピオン)  


「私自身は自分に声がないと思っていない。ピアノがあるから」

これは、女自身による冒頭のナレーション。

グランドピアノによって表現される旋律の有機的な躍動は、女の内側深くで貯留されていた様々な情動系の集合である。幼少時より言葉を失い、非社会的で閉鎖系のミクロの宇宙に住んでいる女は、この特殊で固有な感情表現によってのみ世界と繋がっているのだ。

そんな女が嫁ぐために、ニュージーランド南端に浮かぶ「異界」の島にやって来たのは、原住民であるマオリ人の独自の文化と馴染むことを拒む、近代合理主義で固めたプロテスタントであるに違いない男との結婚によって随伴して来たからである。

しかし、夫の一族に強引に形式的な結婚式をさせられて、婚礼衣装を着せられても、型通りのセレモニーを済ませた後は、女は件の衣裳を親族の前で破り捨ててしまうのだ。女の中で、常に他者の侵入を頑なに拒む歪んだ意志がある。

こんな厄介な女の、その閉鎖系の小宇宙に侵入して来た男がいた。女の中のピアノの存在価値の大きさを唯一理解できたその男は、内側に激しい情念をストックする女が放射するフェロモンに誘(いざな)われるようにして、双方の距離を加速的に縮めていく。

荒波寄せる浜辺の一画で、木箱に入ったグランドピアノを弾く女の、限りなく天に開いた零れる笑みに合わせるかのように、軽快に側転し、踊る少女。映像で初めて見せる女の恍惚感が、原始の自然と睦み合い、溶融する。それは、そこで開かれた時間の引力の只中で、自然と睦み合う旋律と一体化した女の神々しい表情を、時折、凝視する男の感情が決定的に変容した瞬間だった。

 男は木箱を取り除く。女と少女の連弾が繋がった。それは、母と娘の連弾というイメージと切れて、〈性〉を獲得した女と、未だ獲得し得ぬ女との競演に近い何かだったと言える。この浜辺のシークエンスが、物語の大枠を充分に語る濃密さを湛(たた)えていた。

世界と繋がる表現媒体である女のグランドピアノが、夫によって件の男に売り渡されてしまったが、ピアノ・レッスンの名目で男の元に通う女の身体には、男の身体を受容するに足る情感的昂揚が生まれていた。

「ピアノを君に返す。君を淫売にしては自分が情けない。君は俺を愛せない」

 女との関係を繋ぐ男には、女を「淫売」にする「取引」を恥じる心を持っていたのである。その心を感受する女の自我は、閉鎖系の小宇宙への躙(にじ)り口の封印を、繊細さを併せ持つ一人の「他人」に対して解いたのだ。

 しかし男の唐突な侵入によって、女の閉鎖系の狭隘な躙(にじ)り口を唯一人往還し得た、娘の「非日常の日常」の世界が根柢から揺さぶられてしまった。

「レッスンは進んでないわよ。ママが自分の好きで弾いているんですもの。全然、弾かないときもあるの」

 それは、この時期の少女の能力が手に入れた、それ以外にないような義父への間接的リークであった。夫は、なお形式性を払拭し得ない「夫婦」の破綻の現場を確認するが、それでも不倫関係への直接的破壊の手段に打って出ることはなかった。かくて、グランドピアノが女の元に戻って来た。

 「ピアノが戻ったのに、なぜ弾かない?」

 夫の言葉である。

 今や女は、「レッスン」なしに男の元に通い、無抵抗に男女の関係を繋ぐのだ。

「ママなんか死んじまえ!」

 男に会いに行く母を止めようとする娘の叫びだ。それでも溢れる情動を抑制しない母は、そこでは、〈性〉を発動する一人の女以外ではなかった。

 「君のことを思って、食事も喉を通らず、眠れない」

 告白する男。眼を輝かす女。男の頬を叩き、自ら求める女。

「そのうち、僕を好きになるだろう」

 あまりに物分かりが良い夫は、そう洩らすだけ。しかし、娘だけは納得できないのだ。娘は、女の夫であり、娘の義理の父に、母が送った、ピアノのキーに記した男への愛のメッセージをリークするに至る。

 そして、悲劇が起こった。泥濘の中で、夫は女の指を切断してしまうのだ。当然の如く、何も解決しなかった。

 「去るがいい。君ら二人で」

 悲劇を惹起した夫は、「解放」という名目で、「異界」の島から二人を放逐したのである。
 

男と共に「異界」の地を離れた女は、大切なグランドピアノを海に投棄した。それは、女にとって、ピアノという最大の表現媒体なしに生きることの価値を獲得した事実を意味するだろう。

 女は、新しい〈生〉を手に入れたのである。

 男と過ごす新しい世界での新しい生活において、女の閉鎖系の小宇宙は、男が侵入可能な分だけ削り取ったのだ。自らも海中に沈みながら、自力で生還を果たした女は、男と過ごす新しい生活の中で、音が存在し得ない深い海底に眠るピアノの夢を見る。

 「意志が生を選んだのか。その力は私と多くの人を驚かせた。(略)夜は、海底の墓場のピアノを思い、その上を漂う自分の姿を見る。海底はあまりにも静か で、私は眠りに誘われる。不思議な子守唄。私だけの子守唄だ。音の存在しない世界を満たす沈黙。音が存在し得ない世界の沈黙が海底の墓場の深いところにある」

 「海底の墓場のピアノを思い、その上を漂う自分の姿を見る」女にとって、それは常に「私だけの子守唄」となっている。そして今、発語の練習を始める女と、それを見守る男との新しい生活の中で手に入れた新しい〈生〉の時間を繋いでいるのだ。

 更に、母への特殊な依存関係を延長し得なくなるだろう娘の、その非日常の日常の時間の起伏を限りなく平坦に変容させた未来をも予想させる、予定調和の包括的な軟着点がそこにあった。

「聞く価値のあるおしゃべりは少ない」

 娘が語る、女のこの言葉の圧倒的な閉鎖系が、作り手が夢想する、文盲でありながら(女の失語症と並列される「抵抗虚弱点」)、繊細で包容力のある男の懐の中で溶融したのである。

 そういう映画だったのだ。女の内側深く張り付く固有の〈性〉の自己運動が、ほぼ完璧に捕捉された映像の構築力は抜きん出るものがあった。それは、観る者に充分なインパクトを与える、「作家性」の勝利でもあったとも言えるだろうか。



自転車泥棒(ヴィットリオ・デ・シーカ) 


こんな時代があって、こんな人々がいた。こんな風景があって、こんな家族がいた。そしてそこに様々な人々の多様な繋がりがあって、良きにつけ悪しきにつけ、そこに一定の結束力があった。それを今「邪悪なる共同体」と呼ぶのは容易だが、しかしそのような繋がりの内で、何とか生活を繋いでいこうとする人々の懸命の思いが、そこには紛れもなくあった。

 当時の自転車は、現在なら自動車一台と等価であると言っていいだろう。しかし乗用車を盗難された人々の悔しさは、アントニオが愛用の自転車を盗まれた悔しさと均しい感情であると言い切れるのか。自転車を盗まれることは生活を奪われることであり、ひいては家族の暮らしを困窮させ、明日の保障のない人生を覚悟することを余儀なくされるのである。アントニオの自転車奪回のあらゆるアクションは、まさに、四人家族の暮らしと生命を賭けた必死の闘い以外の何ものでもなかったのだ。

 翻って、現代社会を俯瞰するとき、私たちの多くは、「パン」の確保のテーマよりも、「心」の癒しの確保の方により強く振れているという印象が強い。家族よりも個人であり、義務よりも権利であり、均質化よりも差別化であり、管理よりも解放であり、秩序よりも自由であり、自立よりも保護であり、「分」よ りも「夢」であり、等量よりも過剰であり、昨日よりも今日であり、しばしば明日よりも今日であり、そして愛することよりも愛されることである。

 このような目眩く現代の蜜の味を、この時代に生きる私たちが果たして捨てる覚悟を持ち得るだろうか。多分に懐古趣味に流れていく者たちは、本気で「共同体回帰」を望んでいる訳がない。蜜の味の一切をかなぐり捨ててまで、その人たちが「古き良き時代」への原点回帰を志向しているとは到底考えられないのである。偶(たま)さか甘いものを食べ過ぎて、それを摂取することを悔いたとしても、命
別状がない限り、「決して甘いものは喰わない」と嗜好転換する決意 を固めたつもりの、件(くだん)の者たちの観念の砦が一片の感傷を入り込ませないという精神武装によって、時空を突き抜ける強靭さを持ち得るとは、私には とても思えないのだ。

 なぜなら、私たちは殆ど確信的に、「近代」が包摂する様々な利器や快楽を勝ち取ってきたのであり、そして半ば暗黙裡に「共同体社会」を破壊してきたのである。自らが壊してきたものの中に、単にノスタルジックな喪失感覚を蘇生させるような離れ難さを覚える何かが含まれていたとしても、せいぜいそこで私たちが為し得るのは、その上辺だけの装飾を自分たちの暮らしや観念に接木(つぎき)することでしかないだろう。

それは恐らく、自己欺瞞以外の何ものでもないのだ。甘いものを散々摂取してきた私たちができ得るのは、明日に繋がる「今日」という時間を、どれほど丁寧に生きていけるかというその一点のみであって、それ以外ではない。私たちはそこに辿り着きたいとどこかで思っていた場所に遂に逢着したのであり、その辿り着いた場所を壊してまで戻りたい場所があるはずがないのである。

 仮にそのような者がいたとしたならば、その者は決して、私たちが辿り着いたこの場所で心地良く共存している訳がないのだ。だから、奇麗事で塗りたくった中身のない言辞を吐き散らすのは、もう止めた方がいい。

 私たちは常にどこかで愚かであり、醜悪であり、あまりに不完全なるホモサピエンスでしかないのである。

 ―― 「自転車泥棒」という映画から学ぶものがあるとすれば、それは「肉親の絆の大切さ」であり、「勤労することの有り難さと辛さ」であり、「失ってはな らないものを守り抜くことの大切さ」であり、そして、「失ってはならないものを失ったときの、自我の崩れを最小限に留めていくことの強さ」であるだろう。それらが、この作品から私たちが学ぶべきものの全てである。少なくとも、私はそう信じて止まないのである。

 「家族の絆」。

 それは、失業問題が慢性化している時代の厳しい状況下において、何よりも「パンの共同体」だった。父が働き、母がそれをサポートし、同時に育児に専念する。子供は就学間近にあって、自分の可能な限りの役割を家族の中で担っている。その状態が堅調に推移すれば、家族は少しずつ、「パン」の問題を克服していくことになるであろう。決して物質的豊かさを手に入れた訳ではないが、それでも苛酷な労働環境の中で、相対的な豊かさの実感を手に入れるに違いない。

 人々が均しく貧しい時代の中では、自分たちの暮らしだけが特段に厳しい状態に置かれていない限り、人々は、「貧しさの中の豊かさ」を実感することが充分に可能なのである。それは広義に言えば、「心の豊かさ」の範疇に入る豊かさである。均しく貧しい時代には、このような豊かさの獲得が可能なのである。

 なぜなら、「家族の絆」は、単に「パンの共同体」の枠内に留まらないからだ。家族とは何より「心の共同体」である。家族内の情緒的結合の確かさが、「家族の絆」を間違いなく強化するであろう。家族とは、「パンと心の共同体」なのである。

 しかし、働くべきはずの父親が失業状態に陥ったら、家族の暮らしは直接的な危機に瀕するであろう。そのとき、家族は何によってその絆を守り、それを崩されないようにして固めていくのか。果たして、「心の共同体」のみで「家族の絆」を堅持することが可能なのか。

 「自転車泥棒」という作品は、まさにこの「家族の絆」という、人間社会にとって本質的な問題にメスを入れた作品でもあった。作品の中で終始描かれていたのは、失業の危機に直面した父を助けようとする息子の、切ないまでに幼気(いたいけ)な行動だった。私の中で最も印象的な描写は、自転車を盗まれた父に同行し、大人に混じって必死に探すブルーノの表情の変化を伝えるシーンである。

 父と子がズブ濡れになって一時(いっとき)雨宿りした際、息子の苛立ちがその上半身を自ら叩くような仕草の中に表現されていた。「どうした?」と些か強い口調で尋ねる父に、息子のブルーノはもっと強い口調で、「転んだんだよ!」と突っぱねるようにはね返したのだ。

 その息子の意を汲んだように、父は息子にタオルを差し出した。そのタオルで体を拭う息子は、父親の表情をチラチラと確かめる。雨の中でも自転車を捜す父の真剣な視線を感じ取ったとき、もう息子は、父に対する不満を零せなくなってしまったのだ。息子もまた、父と同じ視線の内に入っていくのである。

思えば、この日は日曜日だった。もし父が失業の危機に直面していなかったとしても、家族の団欒が実現したはずの人並みの日曜日の過ごし方が、この家族にあっただろうか。 ブルーノは、そんな思いを経験したことすらないかも知れない。経験したことのない快楽に、人は未練を抱くことがないのである。しかしこの映画を観る私たちの多くが、「日曜日の団欒」などという観念は、今や快楽ですらないかも知れぬ。或いは、なおそれを快楽と思える人たちには、ブルーノへの同情を禁じ得ないのだろうか。しかしその思いは、彼らへのフラットな同情以外の何ものでもないから、吹けば飛ぶようなノスタルジーの類であると言っていいだろう。

 因みに、このような作品と付き合うとき最も注意すべきことは、「皆がお互いに助け合った時代の、古き良き共同体」への原点回帰を、感傷の世界でイメージを膨らませてしまうことへの、知的な検証力の介在がどれ程の有効性を持ち得るかという点にある。それは、「それに比べると、今の世は暗黒だ」などという根拠もない幻想にとり憑かれてしまうことに対して、どれだけ自我のバリアによって、物語の浮薄な部分を稀薄化できるかという点にあると言い換えてもいい。

 豊かさを手にして、少し余裕を持った人間に限って、「永遠なるユートピア」を追い駆ける習性だけはいつの世も変わりないのだ。古来から人間は、「今の若者はなっていない」という言葉と同じ比重で、「今の世の中は最悪だ」という常套フレーズを繰り返し吐き出し続けているのである。これは常に、「ユートピア」なる幻想を追い求める私たちホモサピエンスの厄介な病理であると言っていい。この「進歩幻想」という病理のために、「革命」と いう名の殺戮を繰り返してきた歴史を、またいつの日か、忘れた頃になぞっていってしまうのは、人間の学習能力の限界を示すものであるに違いない。

息子ブルーノは、父アントニオの背中と視線を見て育ってきた。同時に、頑張り屋の母マリアのてきぱきした動きを常に肌で感じ取っている。この子は間違いなく、勤労することの有り難さと辛さを実感できている。「パン」を手に入れることの大変さを感じ取っているのだ。それは、「パン」を手に入れることの大切さを学習できているということである。その故、この幼気(いたいけ)な子供は、常に父の役に立ちたいと願っているのだ。ブルーノにとって、父の存在はある意味で、自分の最も身近にいる成人男性の一つのモデルであったかも知れない。

しかしそんな父が、自分の眼の前で、あってはならない人格像を晒してしまった。ブルーノにとって、それは見てはならない光景だったのである。見てはならない現実が、そこに晒されていた。

 6歳の子供の自我に侵入してきた現実は、自転車泥棒に走って捕捉された父の悲哀な相貌だった。こんな厳しい現実に、日常的に晒されていたであろう時代がそこにあり、その時代に、それ以外に生きようのない人生を繋いでいく多くの人々がいた。アントニオ父子もまた、そんな群れ成す人々の一人だったのだ。

 ブルーノは、父の犯した罪の重さを、その犯した分だけの重量感によって、その幼い感受性の内に、果たしてどれだけ受け止めることができたのだろうか。そもそもこの子にとって、父の為した行動が「神に背く罪」として受け止めることができたのか。そうではあるまい。この子は常にどこかで、父の意を理解しているところがある。理解というより、父の思いに一定の感情移入を果たしている。この子にとって、父の犯した行為は、必ずしも「神に背く罪」ではないのである。

 それでも、ブルーノは辛かった。父の許し難き行為が辛いのではなく、衆目の前で自分の父が詰られ、罪人のように扱われたその風景が辛かったのだ。その風景の辛さの中で、息子は父の手を求めるように弄(まさぐ)った。父は息子のその思いを受け止めて、その手をいつまでも放さずに、夕闇のローマの人いきれの中に消えていく。

 しかし、父子の強い情愛は決して消えないであろうことを、映像は見事なまでに映し出していた。二人はぴったりラインを同じにして、戦後まもないローマの古い佇まいの中に点景を刻んで、家路に就いたのである。明日の「パン」の保障がない厳しい生活環境に、時には押し潰されるかも知れない不安を予感させつつも、映像は苛烈なリアリズムで固め切ったのである。



ミリオンダラー・ベイビー(クリント・イーストウッド)  


様々な想像力を駆り立てる映画である。説明的な映像になっていないからだ。遠慮がちなナレーションの挿入も、映像の均衡性を壊していない。観る者に、本作の余情を決定付けた、ラストナレーションに違和感なく誘導し得る重要な伏線となっている、件のナレーションの抑制的価値が担保されていたからであろう。そこがいい。

 では、本作をどう把握すべきなのか。一体、この映画は何を主題にしたものなのか。

少なくとも、これだけは言える。本作が「ボクシング映画」でも、「安楽死」の是非を問う映画ではないということだ。だから、スポーツシーンへの不必要な言及や、「社会派」的な視座の導入は、本稿のテーマにはならないだろう。

孤独な魂と魂が、その奥深い辺りで求め合う自我の睦みの映画。これが、本作に対する私の把握である。恐らく、それ以外のメッセージは末梢的であるに違いない。

 そして、何より本作は、一方の孤独な魂が抱えた人生の軌跡について殆ど何も語られないが故に、そこに張り付く「贖罪」的な観念の束の重量感が、よりリアリティを持って観る者に襲いかかって来るのだ。その意味で、紛れもなく本作は、このフランキーという名の男の物語であった。

 この男の魂のパートナーとなる女の軌跡については、不必要なくらい語られているが、この男の人生の軌跡に関しては、読まれることのない娘に対する手紙の返却というエピソード以外に、映像は殆ど手掛かりとなる何ものも提示してくれないのだ。

 しかし、この時間の空白を、作り手は、決定的成功を手に入れられなかった元ボクサー(スクラップ)のナレーションと、彼との会話等を通して、ジグゾーパズルのように埋めていく映像構成の技巧を導入することで、説明的映像に陥らない程度の瑕疵を充分に補填していたと言える。

 そこから読解できる一つの真実。それは、物語の起動点の23年前に遡る。

 男は現役時代のボクサーであったスクラップの「止血係」として、109戦目の試合に臨み、そこで彼の視力を奪ってしまった過去に拘泥し、一つの看過し難きトラウマの如く、己が「不徳」の行為を責め抜いていた。以来、支配下選手に対して、「自分を守れ」と訓戒する生き方を信念とする男は、必要以上に慎重な性格を露わにしていった。

 「三位一体」の意味を、見知りの神父に訊ねるエピソードに象徴されるように、男の教会通いの意味がどこにあったかについて、フランキーが通う教会の神父の反応によって検証されるだろう。

「安楽死」の問題に関わる、映像後半の重い展開の中で、初めて本気で自分にアドバイスを求めてくるフランキーに対して、神父が放った一言は蓋(けだ)し印象的だった。

 「君は23年間、ほぼ毎日ミサに来ている。それは、何か罪を背負っているからだ」

 男が背負っている罪の内実を特定できないながらも、映像がフォローする男の後ろ姿には、特段の目的もないのに毎日ミサに通って来る男の、その孤独な魂の陰翳が深々と捕捉されていた。熱心なカトリック教徒の男には、「聖者」との会話それ自身を必要とする何かがあったのだ。理由はもう、それだけで充分なのである。

男の孤独が一層極まったとき、そこに一人の若いハングリーな女・マギーが、彼のジムに飛び込んで来た。

当初こそ、マギーへの指導を回避していたフランキーだったが、彼を求めるマギーの思いの一途さと、その才能の片鱗を垣間見たとき、男の防衛的自我の堅固な城塞は緩やかに開かれていく。

 以下、フランキー相手に吐露するマギーの率直な思い。

 「弟は服役中よ。妹は嘘を言い、育児手当を受給。父は死に、母は141キロのデブ。本当なら故郷へ帰って、トレーラーで貧しい生活をすべきね。でも、ボクシングが楽しいの。私にはこれしかないわ」

 こんな言葉をダイレクトに繋ぐ女の気性には、「ボクシングは孤高のスポーツだ。自分一人で戦い、対戦者から勝利をもぎ取る」(スクラップのナレーション)格闘技こそ似合っていたと言えるだろう。

8年間かけて育ててきたウィリーに三行半を突き付けられたショックが尾を引いて、2人の心理的なタイムラグは、なお埋まっていなかったが、マギーの潜在能力を引き出せないマネージャーの無能を見るに見かねて、男はようやく重い腰を上げた。

好々爺然とした風貌とは切れていたが、自分が求める孤独な求道者のイメージに引き寄せられていくような、「道」のプロフェッショナルの適確な指導を受け、まるで水を得た魚のよう連戦連勝する女ファイターが、横幅24フィート以内の四角いリングの中で暴れ回っていた。

しかし、2人の心理的なタイムラグが縮まっていくその時間は、そこから開かれる睦みの物語が内包する栄光と悲劇の端緒が、同時に、その必然性の芽を膨らませていく瞬間でもあった。12戦KOの後、凄い話が飛び込んできた。現ウェルター級チャンピオン、「ブルーベア」と仇名されるビリーとの試合の話がそれである。

 当然の如く、慎重居士のフランキーは、この美味しい話を拒否する。そんなフランキーの過保護の態度を批判するスクラップは、前述したように、23年前の試合で受けたトラウマをマギーに話した上で、ビッグ・マッチを受けることを促した。

そんな折、フランキーを一身に信じるマギーは、彼を伴って、トレーラー・ハウスに住む彼女の実家を帰参する。生活保護を受ける母に家をプレゼントするためだ。それは、苦労多き生活を繋いできたマギーにとって、唯一の親孝行の証でもあった。

 「家なんか買わないで、金をくれれば良かった」

 これが、マギーの実母の、あまりに素っ気ない反応だった。マギーの母にとって、生活保護費が打ち切られる不安の方が重大事なのだ。

 「私にはあなただけ」

 孤独を実感するばかりのマギーには、もうフランキーの存在だけが全てだった。戻るべき故郷を失った、女ボクサーの人生の選択肢が限定化されていくことで、より鮮明になっていく未来像が、そこに張り付く不安感情を払拭する心情世界が浮き上がってきたからだ。

 同時にそれは、孤独な魂が、類似した精神風景を垣間見せる孤独な魂の中枢に、その思いを預け入れてく自然な心の流れが透けて見えて、映像後半の悲劇の重量感にリアリティを持たせていたのである。

 そして、この帰郷の延長線上に、ミリオンダラー(100万ドル)のファイトマネーを賭けたWBA女子ウェルター級世界戦が開かれた。そんな女ボクサーの今回の相手は、名うての反則ボクサーのビリー。

 ラウンド開始のゴングが鳴った。試合は、反則ボクサーの反則攻撃にめげず、マギーが優位に試合を運んでいた。悲劇は、ラウンド終了後に出来した。

 ビリーの反則パンチをまともに受けたマギーは、コーナーの椅子に頸を強打し、そのまま転倒したのだ。運悪く脊髄を損傷し、彼女は全身不随の状態と化した。

 マギーの人生が決定的に反転していく、最も重い時間が開かれたのである。マギーの脊髄損傷は、身体の原状回復が不可能である厳しい現実を告げるものだった。24時間、人工呼吸器で肺に酸素を送り込む生活が、マギーを精神的にもい詰めていく。神経細胞が壊死し、すっかり腐乱した脚の切断を宣告されたのだ。

 その場に居合わせたフランキーが帰宅したとき、いつものように、娘に出した手紙が返送されていた。寡黙な映像は、老人の孤独の極相を映し出していく。寡黙な映像の真骨頂を見せる、この描写も見事であった。フランキーとマギーの深刻な会話を、映像は丹念に描き出す。

 「このまま生きたくない。私は950グラムで生まれたのよ。パパは、必死に生まれた子だって。死ぬときも必死よ。これが今の私なの。全て手にした。その誇りを奪われたくない。観客の声援を覚えているうちに死にたいの」
 「手は貸せない。止めてくれ。頼らないで欲しい」
 「あなたが頼りよ」
 「ダメだ」

 その夜、マギーは舌を噛み、自殺を図ったが、一命を取り留めた。

 失血寸前で舌を縫合したが、彼女はまた舌を噛んでいた。これまでにない真剣なフランキーの相談に対して、神父の反応はカトリックの倫理観を代弁するもの以外ではなかった。

 「手を貸してはダメだ」
 「分ってます。だが、彼女の頑固さをあなたは知らない。王座を狙えたのも、私の指導ではなく、彼女の努力だった。今、死にたがってるが、私は死なせたくない。でも、生かすのも残酷だ。これをどう解決すればいい」
 「解決など考えずに、全てを神に任せなさい」
 「彼女は私に助けを求めているんだ」
 「君は23年間、ほぼ毎日ミサに来ている。それは、何か罪を背負っているからだ。だが、その罪より、自殺を助ける方が大罪だ。手助けしたら、君はお終いだ。魂の闇に入り、永遠に自分を見失う」
 「もう見失っている」

 凄い会話である。しかし本作のこの描写は、観る者を「驚かしの技巧」の得意な「アメリカ映画」のカテゴリーとは切れていた。登場人物の懊悩を構築的に繋いできた映像構成が、相当の説得力を持ち得ていたからである。

 そして、その瞬間を映像は描き切った。笑みと涙で反応するマギー。そこに、もう言葉は不要だった。男は人工呼吸器で繋がれた女を確実に楽にするために、充分な量のアドレナリンを点滴に注入した。一切が終焉した瞬間だった。

思うに、想像力を駆り立てる映画とは、既にそれだけで、作り手は、読解を求めて思考遊泳する観る者の視座とイコール・フィッティング(対等な競争条件)の関係に立っていると言えるだろう。

 なぜなら、観る者は作り手の意図と、作り手によって創造され、そこから相対的な自在性を確保して表現する、本作の登場人物の内面世界の微妙な振幅の双方を想像しなければならないからだ。その時点でもう、作り手と観る者は、「想像力の戦争」を巡る知的過程を開いている。

独断的に言ってしまえば、本作こそが、クリント・イーストウッド監督の最高到達点である。



白いリボン(ミヒャエル・ハネケ) 


ミヒャエル・ハネケ監督が構築した映像の凄みは、一貫して妥協を拒む冷厳なリアリズムと、曖昧さの中でも重要な伏線を張り、その多くを回収していった心理学的且つ、論理的構成力の完成度の高さにおいて、最後まで微塵の揺るぎもなかった。既に私にとって、この映画は忘れ難き一級の名画となった所以である。

1913年の夏。北ドイツの長閑な小村に、次々と起こる事件。

 村で唯一のドクターの落馬事故が、何者かによって仕掛けられた、細くて強靭な針金網に引っ掛かった事件と化したとき、まるでそれが、それまで連綿と保持されていた秩序の亀裂を告知し、そこから開かれる「負の連鎖」のシグナルであるかのようだった。

次いで、荘園領主でもある男爵の納屋の床が抜け、小作人の妻が転落死するが、男爵に恨みを持った小作人の息子は「事件」を確信して止まなかった。同日、牧師の息子であるマルティンが、橋の欄干を渡る危険行為を、本作のナレーターでもある村の教師が目撃し、本人は死ぬつもりだったと告白。父に伝えられることを恐れるマルティンには、既に物語の序盤で、定時の帰宅時間に遅れた姉のクララと共に厳しく叱咤されていた。

 以下、その際の父の説教。

 「今夜は、私も母さんもよく眠れない。お前たちを打つ私の方が痛みが大きいのだ。お前たちが幼い頃、純真無垢であることを忘れないようにと、お前たちの髪 や腕に白いリボンを巻いたものだ。しっかり行儀が身に付いたから、もう必要ないと思っていた。私が間違っていた。明日、罰を受けて清められたら、母さんに 白いリボンを巻いてもらえ。正直になるまで取ってはならない」

 「白いリボン」とは、厳格な牧師の父にとっては「純真無垢」の記号であるが、それを巻かれる子供たちにとっては、「抑圧」の記号でしかないことが判然とする説教の内実だった。

秋の収穫祭の日。男爵家のキャベツ畑が荒らされるが、犯人は、転落死した小作人の妻の息子だった。その夜、男爵家の長男が逆さ吊りの大怪我を負い、父を激昂させる。

 「犯人は我々の中にいるのだ。私は罪人には必ず罰を与える男だ」

 小作人を集めた前で、村人の半分を小作人に雇う男爵の檄は、村人たちを震撼させるに足る劇薬だった。まもなく、事件に怯(おび)える男爵夫人は子供たちを連れて、実家に帰っていく。

 冬。

 家令(事務・会計管理、使用人の監督等の任務に就く)の赤ん坊が風邪をひくという小さな出来事を、映像は拾っていく。その風邪の原因は、赤ん坊の部屋の窓が開いていたことにあり、この辺りから、「事件」、「事故」に子供の関与が濃厚になっていくという伏線が張られていくが、その伏線の回収は遅々と進まず、いよいよミステリーの濃度を深めていくのだ。また、「事故」が出来した。男爵家の荘園の納屋が火事になり、小作人が縊首しているのが発見されたのである。

 更に、退院したドクターは助産婦との男女関係を続けていたが、彼は信じ難い言葉を吐き、彼女に別れを告げるのだ。

 「お前は醜く、汚く、皺(しわ)だらけで、息が臭い。ふぬけた死人のような顔をして。世界は壊れない。お前にも私にも」

 このように、映像は、この村に住む男たちの専制君主的な振舞いを次々に見せていくのである。この専制君主的な振舞いこそ、村の子供たちの「従順過ぎる自我」の心理的背景にあることを示していくのだ。

 そのドクターは、あろうことか、14歳の自分の娘であるアンナとの近親相姦の関係にあった。そのことを助産婦に指摘されたドクターは、「お前は黙って死ね」と罵るのみ。その辺りに、冒頭のドクターの落馬事故との因果関係があるらしいことを、完璧なまでに論理的な映像は、観る者に提示していくのである。

春。

 愛児のジギと新しい乳母を連れて、男爵夫人は村に戻って来た。助産婦のダウン症の息子、カーリが顔面血だらけの状態で発見され、視力を失う事件が出来する。

 この辺りで、一連の「謎の事件」のの犯人が、村の子供たちの集団的な行為であることが判然としてくる。神学の授業での「仕切り方」を見る限り、牧師の長女のクララがそのリーダーであることをも、観る者は理解し得るだろう。

まもなく、ドクター、助産婦とダウン症の息子カーリの姿が消え、一連の「謎の事件」の「真犯人」こそ、逃亡した彼らの仕業だという噂が、あっという間に村全体に広がっていく。

その後、教師はエヴァと結婚し、徴兵される。第一次世界大戦が勃発したのである。終戦後、教師は町で仕立屋を開き、村人たちとは2度と会うことはなかったというナレーションによって、ナレーターとしての教師の役割は形式的には完了する。

 但し、この間、助産婦の離村に際し、彼女からカーリの事件の犯人が判明したと聞いたことから、彼なりに調査していく経緯が描かれるが、そこで得た教師の情報は、牧師の子であるクララとマルティンの姉弟が一連の「謎の事件」に深く関与している事実であった。

 何より、本作を権力関係において仕切っていたのは、領主である男爵でもなければ、インモラルのドクターでもなく、紛う方なく、欺瞞の極致を体現した牧師であるということは、ジギの事件の直後、「日曜の礼拝の後、牧師の許しを得て、男爵が話をした」というナレーションによっても判然とするだろう。牧師こそ、プロテスタンティズムによって精神的に統一されていた、村内における「神の代弁者」だったのだ。その牧師の欺瞞の極致を、以下のエピソードは雄弁に語ってくれるだろう。

 例えば、牧師が可愛がっていた小鳥を串刺しにした、長女クララの「犯罪性」を明瞭に認知しつつも、普通に堅信礼(プロテスタント諸教会において、幼児洗礼者が教会の正会員となる儀式)を受けさせ、特段に咎(とが)めることをしなかった。その堅信礼で、聖餐(ここでは、イエスの血としてのワインに口をつける儀式)に尻込みした娘のクララに対して、父である牧師は、クリスチャンとしての資格を強引に付与することで、「犯罪」に関わる娘との「共犯関係」を作り上げてしまったのである。

 クレバーなクララはこのとき、自分の父親の度し難き欺瞞性を見透かして、恐らく、一連の「謎の事件」の主導者としての行為を確信的に延長させてしまったと思われる。ラストシーン近くで、助産婦のダウン症の児童に対する暴力行為の主導者として、村の教師から疑義を持たれても、父である牧師が、自分たち姉弟を守ってくれるだろうという確信があればこそ、詰め寄る教師に対して、事件との関与を明瞭に拒絶し切ったのである。

 そして、案の定、教師からその件を指摘された牧師は、「名誉」を頑として堅持するが故に、事件の本質を「隠蔽」するに至ったのだ。

 その辺りの会話を再現してみよう。

 「先生は、自分の生徒や私の子供が犯人だと言うのかね?」

 これは、教師の間接的な指摘に対する、件の牧師の反応。

小さく首肯する教師に、牧師の反撃は一気に畳みかけるまでには至らなかった。噴き上がる感情の整理に、ほんの少し手間取ったからだ。

 「分っているのか。君は正気で・・・」

 ここまで言葉を繋いだ時点で、明らかに、牧師の心の動揺が観る者に伝わってくる。牧師は、そこで一瞬の「間」を取って、それでも収まらない感情を言葉に繋ぐのだ。

 「君がこんな醜悪な話をするのは、私が初めてなはずだ。もし、このことで君が誰かに迷惑をかけたり、誰かを告発して、家族や子供の名誉を公に汚したりすれば、ここで、はっきり言っておくが、君を刑務所に送るぞ」
 「でも・・・」

 反駁するために、教師は口を挟もうとするが、相手の男は、「村の実質的な精神的権力者」としての本性を露わにするのだ。

 「私は牧師として様々な経験をしてきたが、こんな不快な話は初めてだ。君は子供が分っていない。だから、こんな低俗な間違いを犯すのだ。心が病んでいる。 君のような男に、子供たちを任せておいたとは!この件は役所に報告しておく。出て行ってくれ。もう二度と顔を見たくない」

 興奮して捲(まく)し立てているが、そこに垣間見えたのは、「村の実質的な精神的権力者」の相貌を剥(む)き出しにしていく男の本性であった。

 恐らく、薄々感じ取っていた我が子の「犯罪行為」を、このとき確信にまで高めた可能性があったにしても、件の牧師は、その教師に権力的な恫喝を加えなが ら、「許し難き大人」(ドクター)や、嫉妬の対象となる上位階級の子弟(男爵家のジギ)のみならず、遂には、最も立場の弱い発達障害児(ダウン症の児童 カーリ)への暴力にまで加速させていったに違いない、長女のクララを庇い切ったのである。

 この一連の「謎の事件」のエピソードの最終地点にこそ、この村の「負のコミュニティ」の爛(ただ)れ切った様態が露わにされ切っていて、映像に映し出されないものの怖さが沸点に達したと言えるのだ。そして、この映画の中で由々しき描写は、家令の息子が男爵家の長男であるジギの笛を奪って、ジギを池に放り込むという直接的暴力を行使したことが露見し、父である家令に激しく殴打されながらも、その父が離れるや、此れ見よがしに笛を吹き鳴らすシーンである。

 それは、圧倒的な権力関係で父子関係を結ぶ「負のコミュニティ」にあっても、既に、思春期に達した家令の息子の反抗期現象という、心理学的に目立った枠組みを突き抜けて、少年の暴力的情動が抑制不能な状態を顕在化させてきた事実を裏付けるものだったと言っていい。

 同時にそれは、父の飼っていた小鳥を串刺しにしたクララと同様に、隠れ忍んで、暴力的情動を形成させてきた「子供十字軍」の「聖戦」が、もはや、悪徳の象徴でもあったドクターの家族を離村させるほどの直接性を持ち得たことを意味するだろう。

 「子供十字軍」の暴力的情動が、その噴き出し口を求めて止まない「病理」を顕在化させてくる辺りに惹起したのは、遥かに巨大な暴力である第一次世界大戦の勃発だったという流れは、この映画の本質的な問題提示をより鮮明にさせる何かだったに違いない。一切を吸収し、丸吞みしていった〈大状況〉の風景が決定的に変容するところでフェードアウトしていくときに流れる、神を讃える「純朴なる少年少女たち」の透明な声。

 そこで、タクトを握るのは、牧師に「君を刑務所に送るぞ」と恫喝された教師だったというアイロニー。今や、この村は、〈大状況〉の風景の決定的変容の坩堝(るつぼ)の中で、一切の矛盾をも溶かしゆくパワーを持ち得てしまったのである。それは、何かが開かれ、そこで開かれた新しい未知なる世界への誘(いざな)いでもあったということなのか。

このような映像を構築し得たミヒャエル・ハネケ監督の力量に脱帽するばかりだ。凄い映像作家と言うより外にない。



冬の小鳥(ウニー・ルコント) 


少女が大人たちの止めるのも聞かず、施設の門柱の上に乗った。寮母が少女の脚を捕捉しようとしたが、身軽な少女にかわされてしまったのだ。不安げに事態を見詰める施設の子供たち。

 「子供たちを中に。イェシンお願い!」

 事態に充分対応できないカトリックの児童養護施設の修道女に代って、気丈な寮母が年長の少女に命じて、施設の子供たちを部屋に戻させた。脚に障害を持つイェシンが、子供たちを誘導する。

 そこに、もう一人の大柄な少女が、あっという間に門柱の上に登り、既に登り切って、恐々と立ち竦んでいる少女を捕捉しようとした。

 「降りなよ!」

 大柄な少女が叫ぶ。

 「スッキ、何するの!降りなさい!」

 寮母の叫びだ。大柄な少女の名は、スッキというらしい。

 そのスッキも、寮母の命で下に降りた。立ち竦んでいる少女を捕捉できなかったからでもあった。

 「門を開けたわよ。帰りなさい」

 一貫して気丈な寮母は、立ち竦む少女にそう言って、門扉を開放し、周りにいた子供たちを強制的に戻らせたのである。カトリックの施設の二人の修道女をも指示して、〈状況〉を仕切る寮母の人生経験が、このような括り切った振舞いを身体化させているのだろうか。そう思わせる「女の強さ」が、そこに表現されていた。

 誰もいなくなった施設の門柱の上で立ち竦んでいた少女は、恐々と門柱から降りて、それ以外にない行為に流れていく。押し出されたように門外に出て、とぼとぼと歩いていくが、その脚が止まったところで、このシークエンスが閉じていった。少女なりに「適応拒否」の意思表示を身体表現することだけが目的化されたような行為が見透かされて、もう、少女は何もできなくなった。

 その直後の映像は、夜になって戻って来た少女が残飯を漁っているシーン。空腹に耐えかねた少女の振舞いは、「適応拒否」の意思表示を身体表現する一連の、その頓挫の流れの中では至極自然なものであり、予約された硬着点であっただろう。予約された硬着点に流れ込む以外になかった少女の名は、ジニ。これは、児童養護施設に強制的に収容された、9歳の少女ジニの悲哀の物語なのだ。

 その悲哀の物語の中で、以上のシークエンスは、本作の中で極めて重要なシーンである。なぜなら、既に親に捨てられたジニにとって、今や、児童養護施設での「仮の生活」以外に行動の選択肢がないことを、「施設からの自己解放」という艱難(かんなん)な物理的行為の軟着が不可能である現実の経験を通して、残酷なまでに感受せざるを得なかったからである。

 開放された門扉の向こうへの遥かなるディスタンス。この現実の重量感が弥増(いやま)して、9歳の少女は、「仮の生活」の強制的機構の世界のうちに、ただ単に物理的なシフトを果たしたのである。

 ジニは、児童養護施設での「仮の生活」への適応に対して、心理的に受容していないのだ。ジニには、「親に捨てられた子供」という冷厳な認知が未形成だったからである。「一泊旅行」の気分で、大好きな父によって連れ出された挙句、「海外養子縁組」を期待されてか、カトリックの児童養護施設に送り込まれたという現実を受容しないジニには、「一泊旅行」の場所に定住する観念が生まれようがないのである。

「施設からの自己解放」という艱難な物理的行為の軟着が不可能である現実と、その物理的なボトルネックを突き抜ければ、大好きな父に再会できるという心理の葛藤が、9歳の少女に強いる残酷さの中で、「私たちの家族よ」と言い切った、イェシンの住む世界への同化を頑なに拒絶する「我がまま」が暴走してしまったということ。これが全てだった。その現実の酷薄さが、冒頭のシークエンスの「我がまま」の暴走によって検証されてしまったのだ。

 もっと酷薄なのは、9歳の少女の中の葛藤が、「仮の生活」の強制的機構の世界である児童養護施設への同化なしに、最低限の生存の保障を手に入れられない現実を通して延長されてしまったことである。これは、9歳の少女の自我のうちに、初発の「トラウマ」が発生した由々しき心的現象を意味する。少女もまた、「親に捨てられた子供」という認知に、少しずつ、しかし確実に近づいていく。

「お父さんが迎えに来ることはない。きっと新しい家族に出会える」

 これが院長の答えだった。

 どこかで諦めながらも、それ以外に縋る術がない僅かな期待感を込めて、徒(いたずら)に神経をすり減らす不安定な浮遊感覚の中で、相当の心理圧を受けていたに違いない少女に対する、院長のあまりに直截(ちょくさい)な反応に、相手への「気配り」にエネルギーを費消する我が国の文化との乖離を感じざるを得ない シーンだったが、自らが置かれている現実の状況を受容するしか未来と繋がれない厳しさを、全く回避することなく、明瞭に示す教育を批判する何ものもないだろう。

今や、退路を断たれたジニには、「海外養子縁組」という未来を選ぶか、その唯一の未来を捨ててしまうか、少女なりに、いずれかでしかない極限状況に捕捉された思いであったに違いない。そんなジニが選択した行動が、後者であったという心理の流れは、それまでのジニの行動傾向を見れば想像し得るものであった。

 小鳥を埋葬した場所を掘り返し、そこを自分の墓にしようとして、ジニは迷うことなく、子供一人分の墓のスペースとして充分に掘り起こされた土壌の中に潜り込んでいく。そして、曇ってくすんだ空を視界に捕捉するジニは、〈生〉との唯一の交通手段であった小さな自分の顔に、ゆっくりと土塊(つちくれ)を被(かぶ)していくのだ。

 このときの9歳の少女の心理は、それまで回避していた事態の本質を切っ先鋭く突き付けられ、今や一縷(いちる)の解放点=脱出点を喪失したシビアな現実の中 で、「自分は生きている価値がない」という「否定的自己像」の感情濃度がピークアウトに達したことで、既に早発月経を経験し、幼児では充分に理解し得ない〈死〉の概念、即ち、「死の普遍性」(人は皆、死の運命を免れず)、「死の不動性」(死んだら動かず)、「死の不可逆性」(死んだら蘇生せず)を理解し得ている児童期中期の自我が、明瞭な意思を持って、選択的に押し込まれていった喪失感の反映という文脈で把握できるだろう。

 これは、激発的な感情氾濫の紆余曲折を経て、「愛する父親に捨てられた子供」という「否定的自己像」を抱えるに至った由々しき経験の中で、未だ脆弱なる、児童期自我の本来的な成長を阻害する危機と共存する ことで、その「トラウマ」から発生する、「愛情関係の継続的保証」と「自己尊厳の確保」という、形成的自我の基本的な克服課題の艱難(かんなん)さをべっ たりと張り付けてしまう現象の、極めてインパクトのある映像的再現であると言っていい。

「愛する父親に捨てられた子供」という、現実に対する認知が分娩した「トラウマ」は、「愛情関係の継続的保証」と「自己尊厳の確保」という、形成的自我の基本的な克服課題の艱難さを、児童期自我にべったり と張り付けてしまう厄介な心的現象を招来するだろうが、それでも「海外養子縁組」という、児童養護施設の特殊性が生みだした「脱出口」=「解放の導入口」 の存在は、「こんな自分でも、まるで『我が子』のように必要としてくれる大人たちがいる」という、祈りにも似た感情によって、幾分、「トラウマ」の隘路を 相対化してくれるのだ。

 だから少女は、「特定的に選択された子供」であると信じる、「反転の発想」の利得を推進力にして、「海外養子縁組」を能動的且つ、選択的に受容するに至った。

里子となっていく、少女の近未来に待ち受ける未知のゾーン。それは、養親との濁りのない関係を形成していく、ボトルネックの克服という新たな課題の問題である。児童心理学的なフィールドにおいて、養親との濁りのない関係を形成していくには、「見せかけ」「試し」「親子関係形成期」というプロセスがあると言われるが、「良い子戦略」による「見せかけ」の時期を 脱して、自分に対する養親の愛情の「試し」のゲームを乗り越えたとき、そこから開かれた「親子関係形成期」の濁りのない地平でこそ、「愛情確認」に蕩尽されるエネルギーが本来的な人格形成に転化されていけば、もう、激発的な感情氾濫を炸裂させていた「否定的自己像」は埋葬されるだろう。

 映像は、「反転の発想」によって駆動していく少女の、ポジティブな身体疾駆のイメージの残像を、観る者に置き土産にして閉じていった。観終わった後、一級の作品と出会ったときの充足感が、いつまでも消えない余情となって、私の中で静かな漣(さざなみ)が立っていた。



カポーティ(ベネット・ミラー)


グレートプレーンズの中枢に位置する、小麦畑が広がるカンザス州西部のホルカムで、その事件は起きた。平原の一角の高台にある、富裕なクラッター家の家族4人が、惨殺死体で発見されたのである。

1960年1月6日。犯人が逮捕された。刑務所仲間が賞金目当てに警察に通報することで、二人の犯人が特定されたのである。犯人の名は、ディック・ヒコックとペリー・スミス。

 犯人が拘留されている保安官事務所を訪れたカポーティは、そこで犯人の一人であるペリー・スミスと会って、簡単な会話をする。どこか繊細な印象を与える彼に、特別な関心を寄せたカポーティは、一緒に写真まで撮ってもらうという、些かフライングとも言える行為を断行する。近未来に予定されている、「新しきジャンルの小説」に使用するためのものだが、カポーティの性格の自己中心的な面が露わになっていた。

 まもなく、4件の第一級の殺人罪に問われた、二人の凶悪犯に死刑判決が下された。陪審員による、全員一致の結論だった。ペリー・スミスを救おうと、カポーティは控訴のための弁護士を見つけることを約束し、面会リストに自分の名を加えてくれるように頼んだ。どこまでも、真実を描く「新しきジャンルの小説」のためである。

 NYに戻った彼は、サロンの場で、ペリー・スミスについて喋りまくっていた。

 「彼は悲しげで内気で、恐ろしい人間さ。家族全員の顔を猟銃で撃ったんだ。初め、こう思った。僕は怖気づき、じき逃げ出すと。殺された一家の息子は頭 に枕をあてがわれて、その直後、至近距離から撃たれた。撃ち殺す前に、寝かしつけたかのように。人は彼を怪物と・・・僕の本を読めば、彼が人間だと分る。この本を書く運命だった」

 「この本を書く運命」のために、カポーティは飛翔しようとしているのだ。

 更に、サロンでのカポーティの独演は続く。

 「今回の調査で、僕の人生が変わった。あらゆるものを見る眼が変化した。僕が書く本を読む者も同じように変わるだろう」

このような彼の言動を見ていると、素人目には、「自己愛性人格障害」の症状に近いと思われる。何か常に特定的他者からの評価を求め、サロンの中心に自分が いて、そこで自己の特別な才能を過剰なまでにセールスする態度と、それとリンクするように、「見透かされることへの恐怖感」、即ち、虚栄心の突出が強く印 象づけられるのである。加えて、自分の野心のために他人を利用しようとする行動傾向の暴走を見るとき、私には「自己愛性人格障害」のパーソナリティがイ メージされるのだ。

「この映画では、何かを手に入れたいという強い気持ちから、自分の行動や自分の行動から生まれた結果に鈍感になってしまった人間を描きたかったんだ。そう いった意味では、この一人の人物の話というよりはもっと大きな話になっているよね」(「CINEMA VICE」より【ベネット・ミラーインタビュー カ ポーティ】)

人間の「善悪」やエゴイズムの問題、死刑制度や取材のモラルハザードの問題、養育環境と犯罪の関係、等々、様々な解釈が可能な本作だが、果たして、ここで 引用した作り手の把握によって了解し得る作品であるか否か、観る者によって分れるだろうが、少なくとも、私にはこの作り手の簡潔な説明が一番納得し得る作品解釈であった。

 人間が特定の目的を持って或る行動を起こすとき、当然、その行動によって手に入れる何某かの結果・成果を想定しているはずだが、残念ながら、目標設定点と結果・成果が重ならない現実を、私たちは嫌と言うほど経験しているだろう。

 まして目標設定点のハードルが高く、それが多分に未知のゾーンに捕捉されているならば、そこで手に入れられるものの成果の確率は遥かに低いものになるに違いない。人間が支配し得る領域など、高が知れているのである。また、自らが手に入れようとした本来の果実が目前にあるのに、未だそれを手に入れられない不快感との長期に亘る共存に耐えられるほど、人間は強靭ではないし、継続力を持つ物語に絶対依存できるものでもない。

 人間はそこまで厚顔になれるし、無恥の世界で開き直ることもできるのだ。感性を鈍感にすることによって守られる城砦の正体こそ、私たちの「自我」であるだろう。鈍感さもまた自我の戦略なのである。

カポーティがペリーに憐憫を感じ、彼に救いの手を差し伸べたいと、一時(いっとき)、想念する時間を持ったことと、彼を利用することによって、世紀のノンフィクションという名の「新しい文学世界」の構築を目指す一連の行為は、彼の自我の内に充分同居するものだった。

 それを彼のエゴイズムと決めつけ、糾弾するには、あまりに傲慢過ぎるという誹(そし)りを免れないだろう。多かれ少なかれ、私たちも似たような人間関係を形成し、そこで似たような行動傾向を晒しているというのが現実ではないのか。

 ただ、カポーティの場合には、それでもなお私たちの、常識的な経験則の範疇を越える過剰さが垣間見られたのも事実であろう。だから彼は、その過剰さの故に自分を支配し切れず、事態の展開を支配し切れなかった現実もまた否定し難いだろう。鈍感になることによって相手に対する憐憫の感情を稀釈化し、相対化させていく。

 それなしに特別のバリアのない空気の中で、自然裡に感情を放置しておくと、その感情に対象人格の悲哀が乗り移ってきて、自分の欲望戦線との間に少しずつ乖離が生まれ、いつしかリバウンドさせた挙句、肥大化した自らの情感系が、その本来の作家的野心を砕いてしまいかねないのだ。

 そのリスクが統御不能になるギリギリの所で、対象人格への悲哀と憐憫の感情の「暴走」を防ぐのだ。それがカポーティの戦略だったと、私は考えている。彼は対象人格への情感系の中枢を鈍感にさせることによって、作家的野心を温存させ、近未来への飛翔を図る本来的な感情を堅持させたのである。

「鈍感さ」という名の自我の戦略に潜らなければ、カポーティという鬼才は「新しい文学世界」を構築し、それを世に発表できないのだ。あのような特殊な状況下では、唯一、鈍感になることだけが、殆ど沸点に達しつつあった彼の作家的野心を温存させる手段だったからである。

 然るに、目標設定点に据えたはずの成果が手に入らず、彼の戦略がいつまでたっても自己完結しなかった。思惑外のその苛立ちと焦燥の中で、その不快感との継続的な共存を強いられるばかりで、彼の自我は疲弊し切っていく。

カポーティの脆弱さが、映像後半を通してたっぷり見せつけられるが、その辺りの心理描写はあまりに直接的過ぎて些か不十分であったものの、本作の白眉に近い印象深い映像が拾われていたことは評価されるだろう。

 そんな苦衷の心理の中に、突然、待機していたはずの決定的な情報が飛び込んできた。

死刑執行という本物の恐怖である。

 欲望戦線の稜線が伸ばされ過ぎた挙句、何年も待って唐突に手に入れた念来の思惑の達成の瞬間が、今、自分の眼の前にぶら下がっているというのに、この革命的な作家の心は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)しないのだ。

 彼の内側にも「恐怖との不調和」の感情が分娩されてしまったのではないか。自分が知らない所で、呆気なく済ませて欲しいと願ったのか、彼はこの極限的なリアリズムからの逃避を図ったのである。彼は逃げた。どこまでも逃げた。それでも追い駆けてくるものに拉致されて、彼は最も見たくない恐怖のリアリティを体験するに至ったのだ。

その結果、何が起こったか。

 「恐怖との不調和」の記憶の継続的、且つ内面的累加の時間である。鈍感という戦略に逃げ切るには、彼が経験した「恐怖との不調和」という心的現象は、あまりに破壊力があり過ぎたのである。

 これは作り手が言うように、「何かを手に入れたいという強い気持ちから、自分の行動や自分の行動から生まれた結果に鈍感になってしまった人間の物語という解釈が最も相応しい映像作品だった。

 但し、その「鈍感さ」は、上述したように、人間の宿痾(しゅくあ)のような「脆弱性」の産物であるが、同時に、「鈍感さ」という名の自我の戦略に潜ること によって、対象人格への悲哀と憐憫の感情の「暴走」を防御する、ある種、最も人間的なエゴイズムの集中的身体表現であったということだろう。

 その辺りの人間の心理を精緻に描き切った本作の質の高さと、それを支えた「フィリップ・シーモア・ホフマン」の超絶的な表現力に脱帽するばかりである。



突然炎のごとく(フランソワ・トリュフォー)


これは、「距離」の映画である。

 当該社会の社会規範の様々な縛りから相当程度自由になって呼吸を繋ぐ、一人の女(「女王」=)がいる。その「女王」は、二人の男によって「発見」され、その絶大な価値を認知された。

 「その粗彫の女の顔の微笑が二人の心を捉えた。それは、アドリア海の野天美術館にあった。二人は感激して、黙って像の周りを廻った。翌日、語り合った。あ んな微笑に会ったことはない。もし会えば、後を追うだろう。天啓を受けて戻って来た二人を、パリは優しく迎えた。フランス娘は彫像にそっくりだった。その鼻、口、顎、額で、彼女は幼時に祭礼の化身に選ばれた。夢のようだった」(ナレーション)

 まさに、「その鼻、口、顎、額で、彼女は幼時に祭礼の化身に選ばれた」フランス娘こそ、「女王」であるカトリーヌだった。全ては、そこから開かれたのである。そして映像は、その「女王」が築いた「パーソナルスペース」(他者の侵入を許容する心理的距離感)の途方もない作りについて映し出していく。

 「誰か私の背中を掻いてくれない?」などと言ってのける、その「女王」が築いた「パーソナルスペース」は、本来的な自我の防衛戦略の砦と言うより、極めて 感覚的なラインなので、それでなくとも見えにくい「パーソナルスペース」の枠組みが、外部の者には空間認知のGPSが機能しにくいのだ。加えて、「女王」が築いた「パーソナルスペース」は、普通の自我のサイズを上回る広がりを持つから厄介なのだ。だから「女王」の芳しいフェロモンを嗅いで、その「パーソナルスペース」に吸収されるように踏み入っていく者たちが多く、その全ては老若を問わない異性、即ち、「女王」に特定的に選択された男たちである。「パーソナルスペース」が見えにくいのは、それが「女王」の感覚的な基準によって策定されたラインだからである。

 感覚的な基準もまた、「突然炎のごとく」という邦題のように、瞬時にして行動傾向が動いてしまう頼りなさを持っているから、まるでそれは、その粘液の支配力が不確かなほど特定しにくい「蜘蛛の巣」のようである。「女王」の「蜘蛛の巣」は、「女王」自身の一見刹那的な感覚包囲網となっているが、しかし「女王」の中では、どこまでも自在性を担保する絶対的で堅固な城塞である。

 然るに、「女王」の芳しいフェロモンを嗅いで、その「パーソナルスペース」に踏み入れていく男たちの規範感覚とズレた世界への侵入は、男たちの行動規範を根柢から揺さぶり、しばしば、「女王」と比べて相対的に脆弱な彼らの自我を混乱させ、中途半端な状況下に置き去りにしてしまうのだ。

本作での最初の男、即ち、ジュールは、「女王」と結婚して、初めて彼女の「パーソナルスペース」の凄味の様態を認知させられるに至った。大体、「女王」がジュールからのプロポーズを受諾した理由は、驚くほど単純なもの。

 「あなたは初心(うぶ)で、私は男を知ってるわ。平均がとれて、良い夫婦になれるわ」

 これが、彼女の言い分だった。恐らく、「結婚」へのハードルが著しく低く見える彼女の情感世界には、この理由で充分だったのである。

「彼女との結婚に賛成するか?」とジュール。

 「女王」と結婚する意志を固めつつあった、このジュールの問いに、親友のジムが放った言葉が全てを語っているだろう。

 「彼女は夫と子供が持てるか?彼女は地上では幸福になれぬと思う。彼女は万人の幻だ。独占できぬ」

ジムの物言いに対して、ジュールは言い切った。

 「用心したまえ。彼女は家の秩序と調和は保っている。だが、万事が好調過ぎると不満になる。態度や言葉が変って来るのだ。既に彼女は一度捨てたよ。半年間だ。もう、帰らんと思った。また出て来そうな気がする。僕だけの妻ではないのだ。3人も情夫がいたよ・・・僕は必要ではない。自制が効かない女なのだ。僕は彼女の不貞に慣れっこになっている。だが、出て行かれたくはない・・・僕は彼女を諦めている。人生に期待したことも諦め た」
 
それでもジュールは、自分の子供まで儲けた「女王」の甘美な支配から脱却する意志を持たなかった。それは、「女王」の芳しいフェロモンを嗅いだ男の宿命だった。しかし、理性的な文学青年であるジュールと違って、ジムの場合は、すっかり「女王」の芳しいフェロモンの虜になってしまって、恋愛感情に宿命的な「嫉妬感情」が澎湃(ほうはい)するに至る。然るに、「女王」に翻弄されるジムの自我は、情感系の自給が追いつかなくなって、急速に枯渇していったのである。

元々、自己基準で動く「女王」の、その不定型な情感系との均衡を求める方略など存在し得ないのだ。「女王」の帰還があっても、今や、置き去りにされたジムの心から、「女王」に対する求心力が加速的に失われていった。激しい恋の突沸は、冷却力も加速的なのだ。だから彼は、「女王」との心理的距離を遠ざけるために、以前の恋人と結婚することを決意した。

 しかし、それは「女王」の距離感覚を侵食するものだった。なぜなら、「女王」にとって、自分で策定した「パーソナルスペース」の範疇に、予約されたかの如く深く入り込んでいたジムとの関係を、相手の恣意的な行為によって相対化されることに厭悪し、その「我儘」を破砕するという、常識的には考えられない行動に打って出たのである。彼女には、自分の「パーソナルスペース」の安定的維持だけが重要であって、それ以外の関係様態が惹起する様々な問題点については、充分に末梢的な事柄だったのである。

 ジュールとジムの違いが、全てを分けたのである。「女王」は二人をドライブに誘い、水辺の料亭で車を止めた。そこで、「女王」は、「話がある」と言って、ジムだけを車に誘ったのだ。ジムを同乗させたドライブの中で、「女王」は小さな笑みを送った。「女王」のドライブ行の行き先は、壊れた橋に向けての疾走だった。壊れた橋から転落する車の中に、かつて瞬間的に燃え上がった男と女がいる。「女王」の覚悟のドライブは死出の旅となり、それを遠方から凝視していた男がいる。

 ジュールである。

 「彼には彼女に裏切られる心配も、死なれる心配もなくなった。死体は葦に絡まっていた。何も残さぬ二人。ジュールには娘があった。彼女は闘いのために闘ったのではない。だが、打ちのめされたジュールはほっとした。ジュールとジムの友情は強かった。つまらぬことに喜び、お互いの差異を認め合った。ドン・キ ホーテとサンチョの友情なのだ」

最後のナレーションである。

こうして、その粘液の支配力が不確かなほど特定しにくい「蜘蛛の巣」のような、「パーソナルスペース」の途方もない広がりを持つ絶対的な城塞を作り上げた、一人の「女王」に関する「距離」の映画が閉じていった。

「カイエ・デュ・シネマ」の誌上で巨匠連の「詩的リアリズム」を酷評して、「フランス映画の墓掘り人」とまで言われたトリュフォーは吠えまくり、噛みつき、墓掘り作業を延長させる戦闘性を昂揚させていったが、その否定的精神の突沸によって「枯渇」させてしまう自我の呻きの認知が、同時に「愛」を主題にする映像群に流れ込んでいったのだろうか。

 本作の「女王」は、この男の実母をモデルにしていると言われるが、この男自身の「内なる『愛』」のイメージラインの実験的模索のような気がしてならない程、切れ味鋭い一篇だった。



つぐない(ジョー・ライト)


「1930年代、戦火が忍び寄るイギリス。政府官僚の長女セシーリアは、兄妹のように育てられた使用人の息子、ロビーと思いを通わせ合うようになる。しかし、小説家を目指す多感な妹ブライオニーのついたうそが、ロビーに無実の罪を着せ、刑務所送りにしてしまう」

 以上の一文は、「シネマトゥデイ」からの引用。

 本作は、「小説家を目指す多感な妹ブライオニーのついたうそ」によって翻弄された、ロビーと長女セシーリアの悲恋と、13歳の少女の嫉妬感ゆえの嘘が招来した不幸な事態へのトラウマが、贖罪を内的に必然化する行程をサスペンスの筆致で描き切った秀作である。

13歳の少女であるブライオニーの嘘によって、刑務所送りになったロビーはナチスドイツとの大戦の前線に、一兵卒として志願することで、何とか命を繋いでいた。彼の切なる思いは、セシーリアとの再会のみ。ダンケルクの撤退に間に合わなかったロビーは、そこで負傷して意識を失ってしまう。

 一方、ロビーを追い駆けるように、セシーリアは従軍看護師になっていた。そして、セシーリアの強い思いが叶って、二人は再会し、束の間、至福の時間を共有していた。更に、ロビーと姉に対する深い悔悛の思いから、18歳になったブライオニーもまた、ナースとして働いていた。

 そんな折り、ロビーが逮捕されるレイプ事件の被害者である、かつての友人のローラと、彼女に恋心を抱いていたポニー・マーシャルとの結婚の事実を知って、 ブライオニーは、「今、この時」を逃したら永遠に贖罪を果たせないという思いを強め、恐る恐る、姉の元を訪ねたのである。姉を訪ねたブライオニーは、そこでロビーと出会い、気が動顛した。

 ロビーは、ブライオニーを厳しく難詰していく。

 「正直に言おう。首をへし折るか、突き落とすか迷っている。刑務所がどういうものか知らないだろう?想像して楽しかったか?」

 毒気に満ちたロビーの攻撃性に、ブライオニーは言葉を失うばかりだった。ブライオニーは、ローラと結婚したポニー・マーシャルが「レイプ事件」の犯人であると釈明した。

 「本当にごめんなさい。こんなひどい目に遭わせて」
 「頼んだことをやれ。本当のことを書くんだ。二度と来るな」
 「ええ、約束する」

 ここで、本作の最も重要な3人の絡みのエピソードが閉じていく。

 しかし、映像は一転して、晩年のブライオニーを映し出した。以上のエピソードは、「小説の中の作り話」であったのだ。「贖罪」という名の、作り話の小説を書き上げたのは、今や老作家となり、重篤の認知症に冒されているブライオニーである。

 ここで映像は、ブライオニーのインタビューを提示していく。

「死ぬんです。主治医によれば、脳血管認知症だそうです。だんだん脳が壊れていく。作家にとっては致命傷です。だから完成させました。書かねばならない本を。私の遺作として。おかしなことに、私の処女作とも言える作品です。私の名前を含めて全て実名です。真実を語ろうと、ずっと前から決めていました・・・実際に見てないことは、当事者に聞きました。刑務所の状況もダンケルクの撤退も何もかも。でも、事実はあまりに非情で、今更、何のためになるかと思ったのです」

「つまり、正直に語ることが?」

 更に、このインタビュアーの問いに対するブライオニーの長広舌の反応は、本作の根幹に関わる最も重要な言葉を記述するものだった。

 「正直に語ること、つまり真実がです。実は1940年6月、怖気づいた私は、姉に会いに行けませんでした。姉の家には行けず、告白のシーンは想像です。真実ではありません。私の創作です。と言うのは、ロビーはブレー砂丘で、敗血症で亡くなりました。撤退の最終日です。姉とも仲直りできませんでした。同じ年 の10月15日、姉は空爆で亡くなりました。二人はとうとう一緒の時は過ごせませんでした。心からそれを望み、報われるべきだったのに。私がそれを妨げたのだと思います。でも読者は、そんな結末から、どんな希望や満足感を得られるでしょうか。だから本の中では、二人が失ったものを取り戻させたかったので す。これは弱さでも、言い逃れでもありません。私にできる最後のことです。二人に贈られたのは、幸せな日々です」 

これが、ブライオニーの贖罪の内実だった。

 ブライオニーは、「二人が失ったものを取り戻させたかった」という物語の立ち上げによって、彼女なりの贖罪を遂行したのである。

 然るに、観る者は、「読者は、そんな結末から、どんな希望や満足感を得られるでしょうか。だから本の中では、二人が失ったものを取り戻させたかったのです」というブライオニーの言葉に、狡猾な欺瞞性を感じるかも知れない。しかし、私たちはよくよく考えてみなければならない。

 晩年のブライオニーが仮構した物語の中に、毒気に満ちたロビーの攻撃性の前で言葉を失い、18歳のブライオニーが謝罪する描写を挿入したのが、遂に贖罪を 履行し得ないまま関係を閉じることになった、シビアな現実の理不尽さを溶解するために、せめて物語の中で贖罪を履行することによって、自我が抱える負性意 識の重さを少しでも軽くしたかったという心理が働いたのは事実であろう。

 それ故、ラストシークエンスでのブライオニーのインタビューで語られたものの中には、彼女に都合の良い語りがあったとしても、それは意図的に加工した嘘話というより、そのように望んだ彼女の想いの結晶であり、同時に、そのように記憶された彼女の「真実の語り」であって、それが事実と食い違う内容を持っていることも有り得ることなのである。自身の中で、認知に矛盾を抱えた者は、大抵、その矛盾を自分に都合の良いように合理的に解釈することで、「自我の不快」を解消しようとする心理傾向に振れてしまいやすいのである。

 自我の防衛戦略であると言っていい。それが人間なのだ。

 それよりも、ブライオニーのインタビューそれ自身が、彼女の「贖罪」であるという把握こそ重要であるだろう。インタビューによって、読者はブライオニーの「真実の語り」を聞くことになるのである。まさに、インタビューそれ自身が示す意味を、私たちは素直に受容すべきなのだ。

 そのことを示すラストシークエンスこそ、そこに勝負を賭けた本作の決定力であると言っていい。少なくとも私にとって、本作のラストシークエンスは心の琴線に触れる括りであった。



レインマン(バリー・レヴィンソン)


この映画ほど、ラストシーンが決定力を持つ映画も少ないだろう。ラストシーンの素晴らしさが、この映画の完成度を決定的に高めたと言っていい。と言うより、本作は、このようなラストシーンの提示なしに自己完結し得ない映画であると同時に、そこに至るまでの幾つかのシークエンスの凝縮が、そこに収斂されていると思えるからである。

重篤な脳の発達障害である「自閉症スペクトラム」(「広汎性発達障害」とも呼ぶ)という疾患を抱える兄を、笑みを結んで見送る弟。

実質的な主人公である、弟チャーリー・ハビットの笑みを結ぶ括りの意味の把握は、単に精神遅滞ではなく、脳の重篤な発達障害を持つ兄レイモンドの、通常の観念を無化し得る程に、様々な「異様」且つ、緊迫した振舞いに翻弄された挙句、このような軟着点を迎えるに至るラストシーンの正確な読解と心理学的了解点な くして、本作で丹念に積み上げてきた「自閉症スペクトラム」に関わる問題が内包する基幹メッセージを、観る者が、その根柢において受容することは殆ど困難であるからだ。

とかく、「純粋無垢」などという欺瞞的な言辞に収斂されやすい、「障害者映画」を免罪符にした感傷的ヒューマニズムに流れていくことで、全てを台無しにする危うさを根柢的に救ったのは、まさに、見事な構図を提示したラストシーンの決定力を有するが故である。

 ロスで自動車ディーラーの仕事をするチャーリー・ハビットは、厳格な父とウマが合わず、絶縁状態になっていたが、父の訃報が届くや、遺産目当てに故郷に戻った彼が知ったのは、遺産の300万ドルを、見た事もない自閉症の兄、レイモンドに相続されるという事実だった。

その金を自分のものにするために、施設にいるレイモンドを言葉巧みに連れ出して、チャーリーは、ロスの自宅に向かったのである。そこから、ロードムービーが最も似合う国での、普通の範疇で収まり切れない艱難辛苦(かんなんしんく)の旅程が開かれていくが、チャーリーにとって、極めてストレスフルになるロードムービーの初発の展開で、早くも、兄レイモンドの「同一性の保持」の振舞いに悩まされる。

それは、自分が穿いているパンツが、Kマートのものではないことへの不満の表出であったが、いつまでもパンツに拘泥し続けるレイモンドに憤ったチャーリーは、遂に兄の「扱い」に諦念し、街の精神科に丸投げの気分を預けるというエピソードが挿入される。

その精神科で、「サヴァン症候群」特有の「カレンダー計算」(数を視覚的に捉える高度な能力)によって、4ケタ×4ケタを即答するレイモンドを目の当りにして驚嘆したチャーリーは、その夜、泊まったモーテルで、兄の能力の発見とは比較にならないような決定的な経験をするに至る。

いつまでも歯を磨いているレイモンドは、小さな笑みを洩らしながら、突然、奇妙なことを言い出した。

「おかしなレインマン。おかしな歯」
「何と?」
「昔、レインマンと言った」
「レインマン?俺が言った?」
「レインマン」
「レイがレインマン?」
「おかしなレンマン」
「レイがレインマン?」

同じ言葉を繰り返していたレイモンドは、ここで自分の荷物を取りに行って、古い一枚の写真をチャーリーに見せたのである。そこには、幼い頃の兄弟が写っていたのだ。

既に酸化されていた古い写真を見て、驚くチャーリー。本作で最も重要なシーンが、ここから開かれていく。

「誰が撮った?」
「パパ」
「あの家で?」
「ビーチクレスト通り10961番」
「いつ去った?」
「1965年1月21日」
「記憶が?」
「木曜日。雪が降って20センチ積もった」
「ママが死んで・・・」
「1965年1月5日に死んだ」
「覚えてるのか?」
「病気で死んだ」
「家を出たのか?あの家に僕もいた」
「窓で手を振ってた。“バイバイ レインマン”」
「あの歌を歌ってくれた?」
「ああ」

レイモンドが大声で叫び出し、パニックが起きたのは、このときだった。

「ダメだよ!いけない!とてもいけない!」

そう叫びながら、自分の頭を叩き続けるレイモンド。

「どうした!何がいけないんだ?」
「ベビーが火傷する」
「ベビーって俺のことか?」
「ベビーが火傷する」
「火傷してない。ほら、よく見ろ」

そう言って、レイモンドのパニックを止めようとするが、一旦、惹起された自閉症者のパニックが収まるのは容易ではない。

「熱いお湯でベビーが火傷する」

恐怖記憶として張り付いていた経験情報が、レイモンドの神経を異様に騒がせているのだ。

「火傷してないよ。大丈夫。心配ないよ」

静かに、宥めるように語りかけるチャーリーの柔和な表現によって、ようやく落ち着きを取り戻すレイモンド。

「弟に怪我をさせないように施設に入れられたのか」

レイモンドのパニックの意味を理解したチャーリーにとって、自らが発語して確認する、この文脈が内包する甚大な含みが放つ情報の決定力は、長きにわたって、 彼の内側で黒々と燻(いぶ)されていた情念の曲折的なうねりを根柢から破砕し、浄化されていく者の、予想だにしない軟着点への革命的な心情変容を、噛み締めつつ受容していく行程を開くに足る何かであった。

「チャーリー・バビットに怪我させるな」

再び言語化する、父から言われた言葉に張り付くレイモンドの恐怖記憶は、バスタブの栓を開け、お湯を出す度にフラッシュバックし、狂おしく蘇ってくるのか。そうではなく、それは、目前にいるチャーリー・バビットとの脈絡において現出した、恐るべき経験情報なのだろう。弟である幼児期のチャーリーの健康を保証し、命を守っていくために、自閉症者の兄レイモンドを止む無く施設に預け入れた父。

このモーテルでのエピソードは、本作の物語を二分するほどの決定的なシーンだった。映像の風景が、この夜を境に大きく変容していくからである。些か軽薄な印象の強いチャールズの魂のルーツが明らかにされ、それを真摯に受容する彼の兄に対する親愛感情が芽生えていくのである。

しかし、ユーモア含みの、レイモンドの「ラスベガスでの世俗体験」を経て、ロスの自宅に戻ったチャールズを、施設のブルナー医師が待っていた。レイモンドへの理解が深いブルナー医師にとって、レイモンドの心の安寧の場所が施設にしかないと考えるのは当然だったが、今や、ブルナー医師と対峙するチャールズとの審問会のシーンが開かれていく。

 そこに立ち会ったのはマーストン博士。両者の譲らぬ主張を受けて、マーストン博士はレイモンド本人に、その気持を尋ねるに至った。

「レイモンド答えて。弟と暮すか?彼とロスで暮らすか?」
「レイ、先生の質問をよく聞いて」とチャーリー。
「ああ・・・」とレイモンド。
「一緒にいたいか?」
「ああ。チャーリーと暮す」
「一緒に?」
「ああ」
「別の質問をする。施設に帰る?」
「ああ」
「2つの違いが分るか?」
「ああ」
「チャーリーとロスで暮らしたいか?」
「ああ」
「それとも施設へ?」
「ああ」
「2つは別のことだ。1つじゃない。選ぶんだ」
「施設に戻って、チャーリーと暮す」

ここまで話を聞いていて、チャーリーは全てを理解できた。兄レイモンドに対して二者択一を強引に迫っても、その本当の意味が理解できないということを。

「もういい、止めてくれ!兄を傷つけないでくれ!レイ、もう終わりだ」
「ああ、チャーリーと暮す。施設で・・・」とレイモンド。
「もういい」

マーストン博士がブルナー医師と相談するために室外に出て行った直後のカットは、レイモンドの傍らに移動し、寄り添っているチャーリーの真摯な表情。

「大丈夫か?」
「ああ」
「質問は嫌だろう?」
「嫌だ。分らない」
「もうさせないよ。俺が守ってやる」
「メインマン(親友)。僕の親友」

レイモンドは、そう言ったのだ。

レイモンドには、「兄弟」という概念を表面的に理解できても、それがメインマン(親友)という概念のうちに収斂されてしまう事実を。レイモンドにとって、「兄弟」という概念など末梢的なものであって、ただ、自分と少しでも心が通じる対象人格こそ求めて止まない存在であることを。その対象人格は、「メインマン(親友)」という特別な価値を有する存在なのだ。チャーリーは、このことの意味を本質的に理解できたのである。これが、決定力を持つ映画のラストシーンの最も重要な伏線になった。

「兄弟で幸せだよ」

無言のカットが続いた後での、チャーリーの言葉である。この言葉を受けて、レイモンドが反応した。

「ああ・・・CHARLIE・・・CHARLIE・・・親友・・・」

それ以上ないレイモンドの表現は、「ラスベガスでの世俗体験」に象徴されるチャーリーとの一週間の旅程が分娩した、固有の対象人格への愛着の深さを言わずもがなに物語るものであった。

 抑制の効いた一級の人間ドラマである。



家族の肖像(ルキノ・ヴィスコンティ)


この映画は室内劇である。室内劇にすることによって、映像で表現したいものの純度を高めたいという作り手の狙いもあるが、それ以上に、この映画それ自身が室外描写を必要としない作品であることと多いに関係するだろう。なぜならば、本作で中枢的に描かれた主人公が、室外世界で「状況」を作り出せないからである。

 本作の主人公である教授は、一応教授としての肩書きに見合った仕事を、室外世界でそれなりに果たしていただろうし、そこに多少の振幅に富んだ事象が絡みつくこともあっただろう。しかし、それは恐らく、判で押したような日常性のカテゴリーに含まれる何かであって、決して「状況」と呼べる個性的で、そこに重大な理性的判断が求められ るような切実な時間の媒介ではないに違い。教授は「状況」を作り出せないし、作り出すつもりもないかのようである。

 そんな教授にとって、その自我が拠って立つ安定の基盤はどこに求められるのだろうか。それは彼の心身を安寧に埋めることができる、ローマの中心部に構える彼の豪邸の世界であるだろう。彼はそこで何をしているのか。

 「カンバーセーション・ピース」、即ち、「家族の肖像」をモチーフにした、18世紀の英国画家たちの手による絵画のコレクションに熱を入れ、それを日毎に鑑賞する趣味を通して、内面的充実感を手に入れていたのである。家族を持たず、家政婦と長く同居するだけの孤独な世界の中で、彼は絵画鑑賞にその思いの全てを預けているようなのだ。

 「家族の団欒」を描いた世界は、当然の如く、有機的な存在性を全く持たない。それでも彼は、絵画の中の人物を眺め、しばしば対話し、時間を超えた虚構なる異文化クロスを繋ぐのだ。それは紛れもなく、幻想の世界である。彼はその幻想の世界にのみ、その自我を深々とクロスさせ、そこで何某かの内面的達成を図っているかのようだった。

 そのまま時を重ねていけば、教授の人生には何も起こらないだろうし、また起す必要もなかった。幻想の甘美な世界に細(ささ)やかな喜びを見出し、特定的に確保された内面的時間の中に頑なな日常性を繋いで、なお繋いでいった果てに自己完結する人生。極めて贅沢で貴族的な人生だが、そんな人生があってもいい。人の人生は様々だし、固有の軌跡と振幅の中で、それぞれの人生をそれぞれが愉悦する。それもまた良い。教授の人生もまた、彼なりの固有の色彩を放って、その変わらぬ貴族的な日常性の内に、人知れず閉じようとしていたかのようであった。

 しかし人生は、しばしば予測し難い展開を刻んでみせる。そしてその予測し難さが、当事者の了解的文脈の中で処理できない事態を招来することがある。好むと好まざるとに拘らず、その予測し難い事態の出来に対し て、十全に対応できない自我が晒されるとき、その自我はいたずらに事態の只中で翻弄され、しばしば甚振られ、自らが望まない場所にまで誘導されて、そこで 置き去りにされることすらあるだろう。人生は、まさに一寸先は闇なのである。

本作の主人公もまた、そんな事態に捕捉され、存分なまでに翻弄され、残酷なまでに置き去りにされてしまった。「状況」を作ることから回避するかのような文化世界の、極めて限定的な時間の内に身を預けていた教授は、ある日唐突に、際立って対照的な異文化の侵略に遭遇し、身勝手極まる振舞いを恥じない者たちの闖入によって、その自己完結的な日常性が寸断され、蹂躙されてしまったのだ。「状況」がそこに作られてしまったのである。自我の安寧のバックグラウンドになっていた、城砦のような家屋空間それ自身が、「状況」の拠点になってしまったということだ。

 殆ど、暴力的に作られた「状況」の中で、教授は全く為す術がない。闖入者たちとの言語的クロスが成立しないのだ。四人の闖入者の中で、教授に対して表面的に折り合うことができた娘は、教授の外見の魅力を強調するばかりで、内面的な言語クロスの畔にまで辿り着くことは決してなかった。

 そんな教授は、自らの趣味の弱みに付け込んで侵入して来た者たちを、「無教養で、愚か者」を吐き捨てるが、彼らを追放する権力を行使できず、結局、事態の流れるままに受容する以外になかった。

教授を侵略した者の異文化の体臭には、何よりも危険な香りが満ちていた。それらは「性」であり、「暴力」であり、「祭り」であり、「ドラッグ」であった。夫人と美青年との愛欲の歪みがそのまま屋敷に持ち込まれたり、美青年が襲撃されたりして、遂には爆殺(?)されるに至る。その青年はまた、麻薬付けの身体性を晒していて、警察に捕捉され、その身柄を保証する役割を教授自身が演じることになる。室外世界にも「状況」の稜線が伸ばされていく不幸に、教授自身、神の試練を受けているように翻弄されるばかりなのだ。

 「性」、「暴力」、「祭り」、「ドラッグ」というキーワードが内包する劇薬は、秩序や規範、体制というものを内側から壊しかねない非日常の刺激を存分に含 んで、それ自体危険極まりない要素となっている。そしていずれもが、「死」や「非生産性」というものと繋がる劇薬性を内包するから、常に時の権力は、それを法の縛りで固め上げていくのである。

 そんな劇薬が、教授の偽善的な貴族性を撃ち抜いてきた。教授自身は劇薬と身体的に絡むことがないのに、娘の次の一言は、教授の内面の欺瞞性をアイロニカルに突いていた。

 「私たちの人生はゲームよ。気分の赴くまま。先生の若いときも同じでしょ?」

 当然の如く、この殆ど定番的な、抑制の効かない青春の児戯的な常套句を、教授は全く受容しなかった。

 「学問をして、旅をして、戦争に行き、結婚した。結婚は破局。気が付いて周囲の人々を見回したら、違う世界の人々だった」

 教授のこの反駁は、その内側に矜持を含ませる者の批判的なメッセージでもあった。しかし、決して「状況」を作り出すことをしない教授の欺瞞性の本質を、作り手は自嘲を込めて曝け出しているようにも見える。教授は絵画の中の幻想の世界に 遊ぶことはできても、その絵画に描かれた者たちの生活の真実や、その背後に潜む人生の厳しさについてその想像がどこまで及んでいたか、確かに疑問の残るところであった。

 「人間が抱えている問題こそ、人間が生み出す作品より大切なのに、彼はそれを認めない点に於いて罪ある人間だ」

 これは、ヴィスコンティ自身が語ったとされる有名な言葉である。明らかに、貴族出身のヴィスコンティは、「状況」を最後まで作り出そうとしない教授の人生の欺瞞性に対して、多分に批判的な思いを重ねていたに違いない。

 しかし教授の人生を、更に言えば、その出自と階級の既得権益性に浸かった生活の内実を、それ自身のあり方によって、一体誰が批判することができるだろうか。「状況」を作り出さず、絵画を集め、それを眺めるだけの生活を、果たして誰が批判することができるだろうか。現実から逃避することが、それほど罪深いことなのか。既に与えられた豊かさを、その人なりの物語のサイズで生きていくことが、それほど罪深いことなのか。教養ある知識人が幻想の世界で遊ぶことが、それ自体なぜ背徳的なことであるのか。

 ―― 因みに、「教養ある文化人」という「社会的役割」を演じて生きることは、常に「状況」にポジティブに関わり、寧ろ、それを主体的に作り出すための努力が無前提に求められるという把握それ自身が、既に過剰なまでに幻想であり、しばしば傲慢ですらあるだろう。何より、メディアを介して奇麗事の言辞を吐き下すだけの知識人こそが、遥かに欺瞞的であり、しばしば有害ですらある。そんな「進歩的文化人」の声高の戯言 に付き合わされて、無理にラインを合わせていこうと努める非武装なる青少年たちにとって、それ自体、不必要なまでにハイリスクな選択を強いられることになると言えないだろうか。

 「人間の能力は無限である」などという、散々ありもしない夢物語を語らせられて、それをハイリスクな身体投入によってなぞっていった果ての、悲惨なる現実 に翻弄される人生を、全て「自己責任」の名において請け負っていくには、彼らの免疫力の自我武装が貧困過ぎるとは言えないか。

「老人というのは奇妙な動物だ。愚かで、狭量で、自ら孤独の恐怖を作り、その脅威から必死に守る」

 これは、「最後の晩餐」に際して、教授自らが語った言葉。彼はもうそれ以外にない人生を送ってきてしまっていて、その人生に対する自分なりの完結を果たそうとしている。そんな括りを見せる言葉でもあった。

映像で描かれた物語の真実は、最後までカオスの森の中にある。教授自身が何も理解できないという突き放され方の、その凄惨な様態の先に待つ時間は、老境の際にある者の壮絶なる孤独の現実である。遂に教授は、その死の床において、老境の孤独の極みの中で呻いて見せた。恐ろしいほどのラストシーンであった。

然るに、以上の言及から、作り手がどうのように意図したものであろうとも、私は本作のテーマを、思わぬ闖入者によって作られた「状況」に翻弄された、孤独な老人の悲哀であると考えている。従って、私は本稿のタイトルを、「老境無残――『状況』に捉われて、噛まれて、捨てられて」という、圧縮された文脈で把握することにした次第である。



ソーシャル・ネットワーク(デヴィッド・フィンチャー) 


時代の風穴を穿(うが)つことに、全神経網を集中 的、且つ、継続的にフル稼働させていく能力において抜きん出た若者が、自らが拓いた前線で手に入れたものと、失ったものの価値の様態を、観る者の感情移入 を遮断させるに足る距離感覚を保持させつつ、限りなく客観的な筆致で捕捉した映像の凄みに、言葉を失う程だった。

 回想シーンと現在進行形のシーンをクロスカッティングさせながら描かれる映像は、前者が、手に入れたものの価値の様態を描くのに対して、後者は、前者によって失ったものの価値の様態を再現していくのだ。

 手に入れたものとは、「富」と「名声」である。

 「マーク・ザッカーバーグは世界最年少の億万長者である」という、エンドロールのキャプションにあるように、「富」と「名声」を手に入れた若者の価値の様態とは何だったのか。

失恋相手への不徳的リベンジから転じて、他者に押し付けられる行動規範への妥協の拒絶が人格内化されることで累加してきたに違いない、持前の自在性を肝にした「創造的精神」のうちに、そのモチベーションを昇華させていった、この若者の心理的推進力 ―― それは、既成の概念・発想に一切囚われることなく、自らが選択した課題に対して新しいアイディアを着想し、それを自ら実践することで、新しい価値を生み出す能力、即ち「創造力」である。

それ故にと言うべきか、「創造力」を身体化させてい く行程を通して、「富」と「名声」手に入れた者に対する評価の中に、「人格性」という極めて曖昧な尺度を嵌めこんでいくことで、世俗的な囲い込みの振舞い が流れていく、「道徳」という名の、当該社会の規範体系に拠った情感言語の無邪気な集合による攻撃性には、大いなる違和感を持つのである。

 なぜなら、「創造力」という概念は無論のこと、「富」と「名声」という世俗的言辞もまた、「心の優しさ」とか「思いやり」などという、位相の異なる別次元の世界に収斂される倫理学の範疇の概念ではないからだ。単なる「思いつき」の次元で留まる何かとも異なる、「創造力」のフル稼働の文脈には、既成の倫理学の範疇を突き抜ける破壊力とも、しばしば同居する含みを持つからと言って、「富」を手に入れることそれ自身、或いは、「富」を手に入れるために必死に自らを駆動させていく行為を、倫理学の範疇で裁断する発想はあまりに貧弱であり、傲慢ですらあるだろう。

 大体、ハイリスクな危機突破の自給熱量を総動員したり、得難き「創造力」を果断に身体化させていったり、等々の因果に関わらず、ビジネスの最前線で手に入れた「富」や「名声」に年齢制限など存在し得ないのだ。個人的には、映像で映し出された限りの、本作の主人公の曲折的な生き方の振れ具合に対して、何の感慨も魅力も感じることがない私だが、これだけは断言できる。

本作の主人公であるマーク・ザッカーバーグの推進力となった「創造力」を、安直な「模倣」と揶揄する人たちは、「改造力」もまた、「創造力」の範疇に属することを認知できないということ。だから、彼のフェイスブックの立ち上げは、彼の全神 経網を集中的、且つ、継続的にフル稼働させていった、稀有な「激情的な習得欲求」(米の女性研究者による、「天才」の内的条件の把握)「一点集中力的な 『創造力』の開発欲求」という能力の所産であることを認めざるを得ないのである。

 本作がサクセスストーリーとして構成されていない事実の認知とは無縁に、既成の概念・発想に一切囚われることなく、自らが選択した課題との対峙の中で着想したアイデアを、ハイリスクな危機突破の自給熱量 を駆使し、全く臆することなく、全人格的に実践したからこそ、彼は決定的に成功し、その結果、「富」と「名声」を手に入れたのだ。彼の手に入れたもの価値の様態は、抜きん出て高い彼の能力の結晶以外ではなかったのである。

 ビジネスの最前線で同志的関係を構築し、そこで手に入れた高価値の情報を推進力にして、「課題困難度」のハードルを上げていく闘いの中には、「皆、仲良くやっていこう」などというチャイルディッシュな倫理学が介入する余地など存在しないのだ。

「彼は望みをかなえた。でも映画の冒頭のシーンと同 じくらい孤独なんだ。 誰も、彼ほど懸命に、長時間にわたって努力しようとはしないし、彼ほど深く一途にものごとを考えていないからね(略)この作品の題材で僕が感動したのは、 優れたもの、または価値あるアイデアを徹底的に追求しているマークの姿だ」(「au one デビッド・フィンチャーインタビュー」より)

 デビッド・フィンチャー監督の言う、「価値あるアイデアを徹底的に追求しているマークの姿」は、以下のエピソードのうちに拾われていた。

 「僕と同じ能力があると、彼らが言うのは自由だが、そんな嘘は退屈なだけだ。聞いても意味がない。僕にはフェイスブックのことしか考えたくないんだ。彼らには、そんな知性も創造性もない」

彼らとは、自分たちのアイデアを盗まれたと言って訴訟を起こした双子のウィンクルボス兄弟のこと。

証言録取という「無駄」な時間に捕捉されたマークが、控えの廊下で、女性新人弁護士に吐露した言葉だ。

 「ウィンクルボス兄弟を嫌ってるのね?」と女性新人弁護士。
 「嫌ってない。彼らが僕を訴えた本当の理由は、物事が思い通りにならなかったからだ」

 マーク・ザッカーバーグの、この言葉は極めて重要である。

 「自分がきちんと評価されていないという怒りだね。それは人間なら誰しも感じることだと思う。このストーリーは、そうした思いをほんの少し誇張して見せているんだ」(前掲インタビュー)

 このデビッド・フィンチャー監督の言葉に集約される、マークの「怒り」は、本作の随所で散見されていた。「怒り」こそ、マーク・ザッカーバーグの心理的推進力だったという訳だ。

「課題困難度」の高さのハードルを上げても、「運」のみに依拠することなく、「激情的習得欲求」を「一点集中力的な『創造力』の開発欲求」という能力の発現への変換させていくパワーを、正当に評価するアメリカという国の摂取許容量の巨大さ。同時にそれは、福音主義派の宗教原理主義の象徴であるかのような「メガチャーチ」に典型的に現れている、「宗教国家としてのアメリカ」の知られざる現実とも共存し得る摂取許容量の巨大さと言っていいのか。これには、驚きを禁じ得ないのだ。

 思うに、「達成動機づけの帰属理論」で有名なバー ナード・ワイナーは、成功と失敗の因果関係の要素を、「能力」・「努力」・「課題困難度」・「運」の4つの要素で示したが、前二者が内的要因で、後二者が 外的要因という風に把握し得るものだが、マーク・ザッカーバーグのケースを考えると、「能力」・「努力」・「課題困難度」・「運」の4つの要素をクリアし たからこそ、目標課題への結果の成功が、単に偶然に左右される要素が多大であったとしても、自らの能力によって、その結果を支配し得たという幻想である「コントロールの錯覚」に呪縛されなかったということ。

 「最後には何億のユーザーを持つ男になるだろう。でもそれは、他の人たちが祝杯をあげているときに、彼は夜中まで働かなければならないことを意味する。彼は望みをかなえたでも映画の冒頭のシーンと同じくらい孤独なんだ。 誰も、彼ほど懸命に、長時間にわたって努力しようとはしないし、彼ほど深く一途にものごとを考えていないからね」(前掲インタビュー)

 マーク・ザッカーバーグに対する、このデビッド・フィンチャー監督の把握こそ、「天才」の内的条件を、「激情的習得欲求」という概念によって把握した、米の女性研究者による定義に嵌っていたとも言える。

 「激情的習得欲求」が、「能力」・「努力」・「課題困難度」・「運」の4つの要素をクリアした若者の「怒り」の炸裂と睦み合ったとき、そこに「一点集中力的な『創造力』の開発欲求」という能力の発現への変換が分娩されたのである。それ以外ではないだろう。

最後に、「夢」について書いておきたい。

自分なりに成長させ、継続させてきた「夢を見る能力」に集合する情感が安楽死することなく、いよいよリアリティを帯びてくるとき、「夢を具現する能力」を引っ張っていく堅固な自我が健在であるならば、それが、どれ程のサイズの「夢」であろうとも、シビアな客観的世界との対峙の中で、篩(ふるい)に掛けられて成長してきた「夢を見る能力」が、「夢を具現する能力」に繋がっていく可能性は決して小さくない。

 自らの夢を育て、いつしか、より筋肉質の武装性を纏(まと)うことで、その者は、どこまでも冷厳な世界のリアリズムに振るい落とされることなく、「夢を具現する能力」の達成感を得て、鮮度の高い未知のゾーンを射程に入れながら、なお呼吸を繋いでいくのだ。

 本作の主人公であるマーク・ザッカーバーグは、まさに、この稀有な例の一人であった。かくて彼は、自らが具現した「夢」の世界に耽溺することなく、辿り着いたその地点から、「具現した夢を継続する能力」が内包する、更なる未知のゾーンに自己投入していくに至る。

 その結果、そのような鋭角的な流れ方をした「先人」たちの多くがそうであったように、彼が具現した「夢」が内包する圧倒的な支配力によって、そこで惹起する厄介な負荷の現実とも向き合わざるを得なくなったのである。圧倒的な支配力のある「夢」を具現したことによって招来した、「社会的責任」という問題が彼の前に立ち塞がったからだ。

 映像は、二つの裁判を抱え込むに至ったマーク・ザッ カーバーグが、それでも、その「夢」の初発のモチベーションにあった、かつての恋人への柔和な視線を映し出すことで閉じていったが、既に、「夢を具現する 能力」を殆ど完璧に遂行し切った男の前に、男が嫌っていた「社会倫理」という壁を如何に突き抜けていくかという重厚なテーマ、即ち、「具現した夢を継続する能力」の艱難(かんなん)さを観る者に印象付けて括られていった映像の凄さは、一人の男の人生の前半部にも満たない発展途上の自我が、全人格的に受け止 めなければならない運命的なテーマの存在を問題提示することで、余情含みのうちにフェードアウトしていったのである。



誰がため(オーレ・クリスチャン・マッセン) 


本作は、死を極点にする「非日常」の鋭角的な時間を日常化した男たちの、「約束された悲劇」を描いたものである。「約束された悲劇」とは、「過激なテロリスト」の人生が、そこにしか流れ着かないような「約束された墓場」である。

 映像が映し出したものの多くは、「過激なテロリスト」によるテロルの連射であり、まるでそれは、頽廃的な文化を特定的に切り取った、フィルムノアールのダークサイドの臭気に満ちていた。

 ダークサイドの臭気に満ちていた立憲君主制国家の名は、第二次世界大戦下のデンマーク。ナチスドイツから「保護占領」という形で侵略された立憲君主制国家において、欧州王家として長く続いた王室は守られ、国内政治も継続性を保証されていた。

 既に、1934年6月末の「長いナイフの夜」で突撃隊を粛清し、党内権力を掌握したばかりか、国家権力を手中に収めたアドルフ・ヒトラーは、デンマーク王国を同じアーリア系のゲルマン民族の国家と主観的に認知していたため、クリスチャン10世をコペンハーゲンに留まることを許可すると同時に、デンマーク 国民の象徴として、その地位を保証したのである。それが、「保護占領」の内実だった。

 そんな中途半端な国家で起こった反ナチ・レジスタンス運動が、熱きナショナリズムの推進力を自給できなかったのは、このような歴史の制約に起因するものだ。

そんな中で、細々と立ち上げたレジスタンス運動に挺身する、二人の男。本作の主人公である、フラメンとシトロンという、コードネーム(暗号名)を持つ二人の青年である。

元より、地下で組織されたレジスタンス運動の本質は、その日常性の一切が、「非日常化」されているという極限状況を常態化しているので、言わば、彼らは「非日常の日常化」の極限状況下で、厄介なミッションを遂行していくのだ。それ故にと言うべきか、同国人への暗殺という行為に対して感覚鈍磨していく様相を呈するのは、殆ど時間の問題だった。 
感覚鈍磨させない限り、自我の拠って立つ大義が守れないのだ。そんな極限状況下で若い自我を支えるのは、「恐怖支配力」の有無であると言っていい。

 「過激なテロリスト」たちの自我を、激しく揺動させる事態が出来した。

 彼らに暗殺指令を出していたヴィンターの意図が自己保身のためのものと分り、彼らは持っていき場のない感情を噴き上げていくのだ。

 「俺らは踊らされ、イギリスから命令など出ていない。秘密を知った者は、無実でも殺され・・・」

 このフラメンの告知に、失ったものの大きさを知るシトロンは、感情的に反駁するだけだった。

 「黙るんだ!いいか、よく聞け!俺らが殺したのは、皆、悪党だ。あのドイツ人将校も、悪党だから撃った。彼が地下運動家だったと、今更言われても・・・ ヴィンターのような金持ちを信じるからだ。金だけのために生きているクソどもだ。ケティを撃てばよかったのに。腑抜けにされて」

シトロンが感受する不条理の思いは、底知れぬほど深い。彼は既に妻子と別れているのだ。

 合目的的テロル」に対して、感覚鈍磨させたつもりのシトロンの自我は、大義に縋れないと継続力を保持し得ないのだ。因みに、ケティとは、フラメンの本名がベントである事実を知る女だが、厄介なことに、そのケティを愛するフラメンには、密告者の疑いを抱かれた彼女を殺せない。

 「俺は、無実の者を撃っていない」とシトロン。
 「どうして気づかなかった・・・俺たちだけが、ゲシュタポに追われる羽目に。これが、正義か・・・」

 このフラメンの根源的な問題提示に、シトロンは、そこだけは明瞭に言い切った。

 「戦争に正義も何もない。標的を倒すだけだ」

 それは、大義に縋り得なくなった男の開き直りでもあった。逆に言えば、それだけ、自我が縋りつく大義を飢渇しているのである。敵を追い詰めていた彼ら自身が、今まさに、内側から崩されていくのだ。テロリスト同士の、車内での緊迫した会話だった。

フラメンは、また、独軍の高級将校ギルバートと対峙したときも、「敵と話すな」というレジスタンス運動の基本ルールを破り、相手の人格が放つオーラに尻込みしたエピソードを持っていた。

 非常に重要なシーンなので、再現してみる。

 「ヴィンターの遣いだな」とギルバート。
 「はい。この書類を届けに来ました」とフラメン。

 その後、ドイツ語が上手いと褒められ、慌てて弁明するフラメン。

 「レジスタンスの一員か?」

 沈黙して答えられないフラメンに、ギルバートは言葉を添えていく。

 「今日は遣いだろ?警戒は無用だ。私はヒトラーやナチスのシンパではない」

 暫く「間」ができた後、フラメンは「総統に忠誠を」と思わず口走った。

 「信条の問題だ。君はパルティザンのメンバーだな。興味深い。前線を持たぬ兵士。優秀な兵士か?代償を払う覚悟は?」
 「代償とは?」
 
 返すべき答えを失っているフラメンの心を読み切って、ギルバートはゆっくりレクチャーしていくのだ。

 「いいかね。戦争に参加する理由は3つ。まず、出世のためだが、兵士としては失格だ。平和を望み、死を恐れるからだ。次は、祖国に対する愛国心だ。夢中にはなれるが、夢見る者には挫折する。強さも忍耐強さもない。若さとは、軽率で生意気なものだ。だが、情熱を持って心底没頭すれば、優秀な兵士になれ る」

 ここで、フラメンは最も大事なことを性急に聞こうとした。

 「3つ目は?」
 「敵に対する憎悪だ。相手を憎めば、不可能なことも可能になるのだ。繊細な人間以外にはな」
 「なぜですか?」
 「彼らには、知性と猜疑心があるからだ。もし裏切られたら憎悪は消え、猜疑心が残る。戦争向きではない。神も戦争がお嫌いだ。君の理由は正当なものだ。いい兵士になれる」

ここで、矢も盾もたまらず、フラメンは銃口をギルバートに向けたが、「やはり、そうか」と落ち着いて応える相手は、「君は間違っている」と言いながら、神に祈るのだ。

 もうこれで、フラメンはギルバートを殺せなくなった。命乞いをせず、堂々と「過激なテロリスト」に対峙する態度に圧倒されたのである。映像の中で、最も重要な会話の一つがここにある。

 「裏切られたら憎悪は消え、猜疑心が残る」

 まさに、この言葉通り、「敵に対する憎悪」の継続力を保持し得ない繊細な人間ゆえに、裏切りによって猜疑心が残ってしまう「過激なテロリスト」 ―― それがフラメンであり、シトロンだった。ギルバートを殺せず、その場から立ち去っていったフラメンの後姿を目視して、独軍の高級将校は、そう思ったに違いない。要するに、彼らは「過激なテロリスト」には成り得ても、「全身テロリスト」には成り切れなかったのだ。それ故、彼らの運命は、ホフマンを屠ることが叶わず、「約束された墓場」である「約束された悲劇」に流れ込んでいったのである。

映像は、そんな彼らの曲折的人生を、一貫して乾いた筆致で描き出し、そこに一片の感傷を拾い上げることもせず、「過激なテロリスト」が内包する、極めて人間的な脆弱さを抉り切ったのである。 何より、この映画の良さは、複雑な状況下に捕捉された人間の、複雑に絡み合った心理を短絡的に類型化することをせず、〈状況〉の中で呼吸を繋ぐ人間の複雑さの様態を、そのまま映し出したところにある。普通の人間の、普通の感性のうちに受容するに足る秀逸な一篇 ―― それが、「誰がため」だった。



フォーン・ブース(ジョエル・シュマッカー) 


正直、面白い映画だった。単に面白いだけの映画なら一時間もすれば忘れてしまうが、本作には面白いだけの映画にとどまらない何かがあった。

 それは何だろうか。

  私はそこに、「近代社会の光と影」の最も尖った部分が露出されているように思えたのである。だから「9.11」以後、私が観た映画の中で、本作の評価は高いものがあった。確かに本作には、ハリウッド的な娯楽性の範疇に収斂されるあざとさが随所に散見されるが、その点を割り引いてもなお、私の鑑賞気分を充たす何かがあったのだ。

不平等なる「大いなる豊かさ」の達成は、私権の拡大的定着と相対主義の快楽を手に入れたが、実はその内側に、厄介な鬼っ子を分娩してしまったのである。その鬼っ子とは、匿名性社会の思いもかけない膨張であり、その歪んだ尖りの噴出である。プライバシーの保護が制度的に守られていけばいく程、その特権的な私権の城砦を暴いて止まない者たちの陰湿な暴走を加速させてしまうのである。私権の砦を目立たせる者には、その独占的な快楽に楔を打つことで楽しむ、「私権剥がし」の暴力が必ず追い駆けてくる。前者の存在が匿名化されていない分だけ、それを食(は)むことで愉悦する匿名性の暴力の狂態がより炙り出されてしまうのである。

近年のインターネットの急速な普及は、匿名性社会の裾野を確実に広げてしまったと言えるだろう。ハンドルネームを駆使して、匿名掲示板に書き込まれる不快情報の数々は、明らかにモラルハラスメントの様相を呈していて、それを制度的にフォローしても防ぎ得ない匿名者の暴走が氾濫する始末である。これらの情報は人権侵害のとば口にあって、未だ凶悪な犯罪にリンクせずとも、その不快情報の抑制の効かない暴走は、殆どエンドレスな状況を呈していると言っていいだろう。
 
 近代とは、嫉妬の時代である。しかもその嫉妬が、簡単な利器を通じて特定他者を決定的に甚振(いたぶ)ることが具現できることによって、その病理を再生産させてしまうという負の連鎖の構造を検証してしまったのだ。嫉妬の時代の闇は、深々と陰湿さを増し、もはや辿り着く所のない迷妄をいよいよ広げるばかりである。
 
 快楽を目的とする匿名者が特定他者を甚振って手に入れる快楽が、自分が仕掛けた攻撃によって一定の功を奏し、そこで相手の苦吟を確認することで手に入れる満足感にしばし浸れるが、しかしここで厄介なのは、その満足感は一回的なものでしかないということだ。

甚振ることを止めない者は、更なるレベルの満足を求めることになるので、そこにいつまでたっても、自己完結の最終的達成点が手に入らないのである。より手応えのある快楽を手に入れるために、その攻撃の質を高めていかざるを得ないエンドレスの構造を持ってしまうということ。それが厄介なのだ。次のより高いレベルの快楽に流れていくことで、いよいよその様態を変えていくのである。満足感というものに明瞭なゴールを持たない限り、快楽を求める人間の暴走 は決して一箇所に留まることはないだろう。だから人は、およそ軟着点の見えない絶対的快楽を求めて突き進むのだ。人間は、ここまで愚かに成り得る存在なのである。

本作の主人公スチュはパブリシストを気取るものの、新進女優も満足に口説けない口八丁のケチな宣伝マンである。この男がどれ程の財産を所有しているか定 かでないが、恐らく高が知れているだろう。現にスチュは、業界でそれ程の辣腕の持ち主であるという評価からはほど遠かった。

そんな男を狙った者は、無論、極度に歪んだ匿名者。しかも、この発信者は殺人まで犯しているから、単なる快楽的匿名者の次元を越えて、既に、劇場型犯罪にも似た快楽殺人者をも髣髴させる。あろうことか、この男は、スチュを「傲慢の罪」によって裁こうとしたのだ。

どうやらこの男は、自らを「堕落せし者たちを裁く神」と看做しているようである。そんな不気味な男だが、映像を通して、その実像は一度も語られない。語られないから、この男のスチュ攻撃の目的も不分明である。それにも拘らず、この男はスチュのプライバシーを把握している。彼の妻のケリーですら知らない事実、即ち、スチュが秘め事にしている他愛のない浮気心ですら、この男は把握しているのだ。

 その当人のスチュはと言えば、新進女優と寝たいと願ってはいるが、相手からあまり相手にされないような程度のケチな気分で、フォーン・ブースを利用しているに過ぎない男の浮気心で、タイムズ・スクエアを我が物顔で闊歩してみせる見栄っ張り。それは、電話の男が仕組んだピザ店員に対して、「失せろ」と吐いた言動に象徴されるレベルの愚かさに過ぎないのである。
 
 しかし電話の男は、そんなケチな宣伝マンを「特定他者」に指定して、本来的に非力な「勝ち組」自称者を、集中的に攻撃して止まないのだ。電話の男の行動は、映像を観る限り、全て男の主観が描いた「断罪のシナリオ」通りに進めていて、ボックス内に隠した拳銃の存在を考えれば、男はスチュを最終段階で警察に狙撃させる段取りを作っていたと思われる。
 
 つまり、こういうことだ。

 問題のフォーン・ブースが、その日限りで取り壊される日に、いつもの時間にスチュがこのボックスを利用し、そして、その時間を利用してピザ屋に配達を頼み、そのピザ屋が追い返された後、ボックスを利用する女たちが騒いで、その結果、ポン引きとひと悶着が起きる。更に、そのポン引きがホテルの一室からサイレンサー付きのライフルで射殺され、そこに事件が発生するのだ。当然、警察官に包囲される。しかし、スチュはボックスの中から動けない。スチュがボックスから出て懺悔した後、電話の男によって指示された拳銃にスチュが手をかけたとき、彼は警察の狙撃班によって射殺されるという運命をトレースしていく。そこで、事件は自己完結する予定だったと思われるのである。

 しかし、このシナリオに微妙な誤作動が生じ、不本意にも宣伝マンを生かし、ピザ配達人を殺害するに至った。それでも電話の男は遂に逮捕されることなく、その目的の遂行は、スチュの懺悔という半分の達成に終始した。しかし男には、まだ充分に時間がある。スチュを 監視し、その「悪徳」に変化が起こらなければ、事件を再び起こせばいいだけのことである。男はそう考えて、現場を静かに後にしたのだろうか。
 
私は本作のキーワードは、「電話ボックス」と「携帯電話」にあると考えている。共に「光の近代」を象徴する利器の一つだが、後者の急速な普及によって、前者の利器としての役割が終焉したとする見方はあまりに自明のことである。
 
 然るに、「携帯」以前の「電話ボックス」が果たした役割は大きかった。その狭い空間に潜むことで、私たちは誰にも聞かれることのないプライバシーを、エリアの離れた他者との間で自在に交換することができた。家の電話を使えば 漏れる可能性のある知られたくないプライバシーも、人一人入れるほどの空間に潜り込んでしまえば、遠距離に住む他者との間の睦みを占有することができるのである。

 確かに犯罪防止の故に、「電話ボックス」の中は外部から丸見えになっていて、プライバシーの独占は甚だ困難だが、そのレベルの情報の露出は、そこを利用する個人にとっては末梢的な問題に過ぎない。なぜなら「電話ボックス」の利用者は、会話の内容のみを秘め事にしておきたいからである。そのことを考えるとき、「電話ボックス」の存在は、それを目的的に利用する個人にとっては、私的情報の絶好の交換手段としての固有の価値を保障する媒体以外の何ものでもなかったと言えるだろう。

 そこでは、露出される視覚次元のプライバシーと交換し得るに足る、聴覚次元のプライバシーの価値が手に入るのである。この目的的なプライバシーの獲得こそ、「電話ボックス」の最大の存在価値であったのだ。同時に、私権に拘泥する私たちのプライバシーのスタンスとの関係においても、それはまさに、頃合のバランス感覚によって保持されていたと言えようか。この把握はとても重要である、と私は考える。

 「携帯」という利器が私たちの日常性の内に侵入し、それがあっという間に、日常性の不可避なツールとしての役割を持ったことで、情報に依拠する私たちの文化フィールドは殆ど革命的なシフトを遂げてしまったと考えられる。それはもう、私たちの身体の一部になってしまったと言っていい。私たちの身体の機能がそれによって格段に伸ばされて、私たちは歩行しながら傍らにいない友人と会話し、そこから知りたい情報を好んでチョイスすることさえできるのだ。私たちの日常は、「携帯」の出現によって情報漬けの時間の海に漬かることになったのである。

 「携帯」の出現は、私たちの身体感覚から「距離」という観念を壊し、逆に物理的な操作感の飛躍的な増幅と反比例して、触感的な皮膚感覚を著しく磨耗させてしまったとも言えるだろうか。しかし「携帯」の革命は、そんな眼に見える感覚的変化のレベルに留まらない。何よりもそれは、私たちの私権意識の適切な均衡感を崩してしまったのである。
 
 私たちがそれぞれの目的を持って、街を歩いているとしよう。すると、すれ違った通行人が一人であるのに、そこから突然、違和感を覚えさせる声が届いてしまうのだ。その違和感は、自分が知りたくもない赤の他人の個人 情報が、唐突に侵入してきた不快感情であると言っていい。それは機械音のような騒音ではない。まさに、人の声であるからこそ不快なのだ。

 それは、誰が住んでいるか認識できていないアパートの隣室から、その人の日常風景の様態が言語化されて、自分の部屋に侵入してきて止まない不快感を想起すれば足りるだろう。自分が知りたくもない他者のプライバシーの乱入ほど、不愉快な事態はないということだ。「携帯」の出現は、このような不快因子を生活空間の多くの場面で拡大的に増幅させてしまったのである。

 侵入者としての「携帯」の威力は、限定的で、特定の生活空間における異次元的な「快走」に留まらないのだ。街に出れば普通の感覚で氾濫し、鉄道車両の空間にあっても「快走」し、店舗にあっても、エレベーターに乗っても、静寂な住宅街に戻っても、限りなく、その「快走」を止めないで踊っている。そこに吐き出 される他人の、どうでもいいプライバシーが澱みのない流れとなって、時間と空間を切り裂いていくのだ。「光の近代」の尖りは、必ずと言っていいほど「影の近代」の澱みをプールさせていく。そこでプールされたものがしばしば噴き上がってきて、「闇の近代」の側面を炙り出すことにもなるに違いない。

 便利であり、快適であり、それがえも言われぬ快楽を随伴するものであればあるほど、それを快楽と感じられない人々の不満を高めていく。不満を高めた人の自我に反社会的な攻撃性がべったりと張り付いているなら、その攻撃性が内側で合理的に組織され、それが一見不条理な暴力を突出させる場合もあるだろう。確信的匿名者による確信的な暴力こそが、「闇の近代」の見えにくい偏執狂的な世界の突出でもあるのだ。


 ともあれ、「光の近代」は、常にその鬼っ子としての「闇の近代」を分娩してしまうということ。その覚悟なくして、「千畳敷にもう一間」という、近代のエンドレスな快楽追求のゲームに身を預けることは止めた方がいいだろう。

 しかし、「より豊かに」という人間の進軍信仰が簡単に崩れるとは思えないので、せいぜい、この社会と適切なスタンスを取って、自分の「分」を括ったバランス感覚を捨てないことだ。残念ながら、私の結論はこれだけである。



街の灯(チャールズ・チャップリン)


金を蕩尽するだけの富豪と、盲目の花売り娘という定番的な対比にシンボライズされた資本主義への呪詛は、オープニングシーンで滑稽に描かれた「平和と繁栄」の記念の彫像の描写の挿入によって開かれるが、いつものように、製作、脚本、監督、 編集、音楽を兼ねた完璧主義によって、希代のマルチタレントであるチャールズ・チャップリンは、この「純愛譚」を基本骨格とする、サイレント映画の掉尾 (とうび)を飾るに相応しい物語のうちに、「これでもか」と言わんばかりのコントを嵌めこんでいくことで、ブルジョワ階級の「ふしだらな生活様態」と、そ の「人間性の爛れよう」を皮肉り、笑い飛ばして見せるのだ。

チャップリン演じる浮浪者は、富豪の自殺を 未然に防いだことから知己を得て、金を蕩尽するだけの富豪から10ドルをせしめ、一目惚れした盲目の花売りの美女と再会し、件の美女から花を買い、富豪に成り済まして、富豪のロールスロイスで送るという要領の良さ。

「ご親切、有難うございます」
「また、来てもいいですか?」
「ハイ、どうぞ」

こんな風に近接した二人だったが、盲目の「花売りの美女」に一目惚れしてしまった浮浪者は、「花売りの美女」の勘違いから、富豪であると思い込まれた縁で、富豪に成り済まし、一世一代の「純愛譚」を愉悦する。ところが、アルコール依存症と思しき件の富豪は、酩酊状態時には、浮浪者に大判振る舞いするものの、覚醒すると浮浪者を認知し得ない体たらく。

そんな中で知った、「花売りの美女」の身過ぎ世過ぎの厳しさ。狭いアパートの一室で、年老いた母親と暮らす「花売りの美女」は、家賃を滞納し、大家から立ち退きを迫られていた。加えて、大金さえあれば盲目の治療が可能である事実を知った浮浪者は、「花売りの美女」の困窮の一助になるため、ボクシングのリングにまで上がるが、観る者を存分に笑い飛ばすコントの範疇に収まっただけで、当然の如く頓挫する。

結局、浮浪者が頼ったのは、件の富豪からの金銭的援助だった。偶然、街で出会った件の富豪の状態が酩酊中だったので、1000ドルの大金を受け取ったが、たまたま富豪の屋敷に侵入していた泥棒と出食わして、警官に「現行犯」で追われる始末。かくて浮浪者は、1000ドルの大金を「盲目の美女」に手渡して、自分の「役目」を果たした後、警官に「現行犯」で逮捕され、刑務所行き。

そして、本作の人気と評価を決定付けた、ラスト・シークエンス。

まず、眼の病が癒えた、かつての「花売りの美女」が、苦労を共にした母親と一緒に花屋を開いていた。「花売りの美女」が、見た眼で浮浪者であることが分る男を視界に捉えたのは、その直後だった。「冤罪」で収容されていた刑務所帰りの浮浪者の男が、以前にも増して、落魄(らくはく)の身を路上に晒し、惰弱な気分丸出しでふらついていたからだ。

如何にも貧相で、粗末な身なりをした、風采の上がらない件の小男は、新聞の売り子の少年たちから馬鹿にされる始末。路傍に落ちていた花を拾おうとする浮浪者の風情に、笑いを抑えられない花屋の娘。

その花屋の娘と、偶然、眼が合った浮浪者。浮浪者は、「花売りの美女」との思わぬ再会に驚いて、じっと見詰め続けていたが、まもなく、その表情が笑顔に変わっていく。

「この人、私を好きなのよ」

そう言って、彼女はまた笑うのだ。

浮浪者が拾った花の代りに、彼女が一輪のバラの花を渡そうとする。憐みを感じ取ったのだ。コインを添えて、一輪のバラの花を渡そうとすると、立ち去ろうとする浮浪者。自分の惨めな格好に羞恥心を覚えたのである。

男の内側を駆け巡っていたもの ―― それは、自分を特定できていないとは言え、「純愛」の対象人格であった憧憬の「花売りの美女」から、自分の惨めな姿を見られることへの否定的感情と、それでもなお、寸分でもこの場にいたいと欲する肯定的感情との葛藤だったに違いない。その結果、後者の心理が優ったのである。

2mほどの距離から、一輪のバラの花を渡そうとする花屋の娘。女が男の手を取り、引き寄せたとき、大きな変化が起こった。驚いたように、男を凝視する花屋の娘。

「あなたでしたの?」

指を口に咥(くわ)えて、笑みを返す男。男には、笑みを返すだけの反応しか選択肢がなかったのだ。もう、男は動かない。動けないのだ。男の手をずっと握って、意想外の相手を見詰める花屋の娘。

失望の念を読み取られまいとする配慮が、そこに漂流している。女の心には、感射の念への熱い思いを吐露させる臨界点のギリギリの辺りで、「純愛」の破綻を認知せざるを得ない、錯綜する感情処理が作った「間」の中で、笑みを自然に発露させようとする心理が、眼の前の男の不自然な笑みを延長させてしまったのである。

二人の虚構の「純愛譚」が終焉した瞬間だった。男はそれを覚悟してまで、女の顔を見続けていたかった。ただ、それだけだった。不自然な笑みを延長させる男もまた、虚構の「純愛譚」の終焉を受容したのだろう。

これが、指を口に咥えて、不自然な笑みを延長させる男の、一世一代の「純愛譚」の終焉を告げてフェードアウトしていく、虚構の自壊の、それ以外にない着地点となっていったのである。



彼女が消えた浜辺(アスガー・ファルハディ)


セピデーという名の女性のイニシアチブによって、カスピ海沿岸の避暑地にやって来た3組の家族。その中に、雰囲気の違う美しい女性のエリがいた。セピデーに誘われたからだ。実は、セピデーには、離婚したばかりの友人のアーマドをエリに紹介するという思惑があり、そのためのバカンスの企画でもあった。

しかし翌日、海岸で遊ぶ子供たちの見守りを依頼されていたエリが、忽然と姿を消してしまったのである。それが、全ての始まりだった。

危ういところで溺れる子供を救うに至った事故未遂が惹起しても、なお見つからないエリの行方に、疑心暗鬼を深める家族の面々。唯一、エリと面識のあったセピデーさえも、プライバシーの詳細はおろか、彼女の本名すらも知らないのだ。

 映像は、サスペンスの筆致で、そこに参加した者たちの、様々に入り組んだ人間模様を炙り出していく。凄いとしか言えない、見事なる構成力を見せた秀逸な映像に感嘆させられて、久し振りに味わった映画鑑賞の醍醐味に、えも言われぬ充足感を覚えた一篇だった。

それにしても、ラストカットの構図の見事さ。

これは、「恋のバカンス」を愉悦するために弾けていた、ファーストシーンの構図とあまりに対極的である。タイヤが浜の砂に嵌って動けない車を、一同が黙々と押し上げている構図には、無論、「チームビルディング」(特定の目的達成のために集合した者たちの組織性)の推進力の欠片も見られない。それは、視界不良の「恋のバカンス」を愉悦するために集合した者たちが、決定的に失ったものの重量感をシンボライズさせているように見える。

そもそも、物語で出来した「非日常」の突発的な事態が、視界不良の脆弱な計画を立ち上 げた、セピデーの人為的瑕疵に起因するのは言うまでもないが、何より、最も視界不良の〈状況〉の内実が、「恋のバカンス」の対象人格であるエリについての基本的情報が共有されていなかったこと。それに尽きる。

浜辺で遊ぶ自分(ショーレ)の子供(アラーシュ)の監視を友人(ナジー)に頼み、その友人が、最も視界不良の原因子であったエリに、子供の見守りを依頼する。そこに、この物語で惹起された突発的事態の因果関係が読み取れるだろう。

早く帰りたいと吐露していたエリの事情を全く知ることなく、単に、我が儘な行為と決め付けた誤読の延長線上で、子供の見守りを頼んだナジーには決定的な瑕疵が見られないが、しかし、「恋のバカンス」の計画立案者の肝心のセピデーには、帰宅を望むエリの鞄を隠し込んだことで、彼女の帰宅を阻み、それがエリの帰宅断念の譲歩を引き出せるという甘い見方があった。この甘い見方は、とうてい看過し難い決定的な瑕疵であった事実は否定しようがないだろう。

「戻らなきゃ」

映像が残した、エリの最期の言葉である。

砂浜に簡便なネットを張ったコートでビーチバレーを享受する、大人たちの面々が作り出した陽気な空気を目の当たりにして、断りたくても、引き受けざるを得なかったエリの優柔な態度は、彼女の誠実な人柄を彷彿とさせるものであったとしても、特段に気弱な人間の性格的脆弱性と決め付けられないだろう。

しかし、浜辺で遊ぶ子供たちを視界に捕捉していたエリの心中では、この最期の言葉に集約される感情が塒(とぐろ)を巻いていたに違いない。大袈裟に言えば、彼女は殆どライフセーバー(海水浴場等での監視員)の役割を全く果たしていないのである。そこに責任意識はあっても、それを削り取るほどの感情に支配されていたからだ。その意味で、あってはならない事故が惹起したのは、殆ど必然的であったと言ってもいい。

エリという、最も視界不良な人物を、バカンスの中枢に据えた脆弱な計画が出来した事態の、最もリスキーな顛末の厄介なリバウンドの重量感がラストカットの構図に集約されていたのである。

このようなリスキーな状況下で、このような事態が発生することの確率の高さの怖さを描いたというその一点において、この映像は、「女性の地位の低さ」の問題に矮小化される、「イラン映画」という狭隘な枠組みを突き抜けて、予想だにしない「非日常」の 突発的な〈状況〉を支配し切れない、人間の脆弱性に関わる普遍的な問題にまで肉迫したと私は解釈している。

本作が、「女性の地位の低さ」の問題提示をしたという決め付けによって誤読されたの は、ドイツ人の前妻に「永遠の最悪より、最悪の最後がマシ」と三行半(みくだりはん)を突き付けられた、アーマードとの対極のエピソードによって印象付けられたものであろうが、だからと言って、この類の問題提示が、作り手が特定的に狙った政治的メッセージとして、大仰に受容するには無理があると言わざるを得ないのである。

従って、本作では、歴史形成的な政治・文化風土の問題に関わる現実が露呈されていたことを認知するのに吝(やぶさ)かではないが、アスガー・ファルハディ監督は、それを物語の枠内で由々しきテーマとして独立させることなく、単に現実の有りようを表現しただけと考えるのが自然であろう。

「イラン映画」=「運動靴と赤い金魚」(1997年製作)=「愛くるしい子供の健気さ」と同様に、ジャファル・パナヒ監督の「チャドルと生きる」(2000年製作)に集約される、「政治的メッセージ」の映画というレベルの作品群に矮小化することだけは、もういい加減に止めた方が良い。その類の発想の貧困さこそが、偏見の精神土壌と化すからである。

愚にもつかないイデオロギーに縛られることなく、映画の総体を、もっと自在に観ていく柔軟度が欲しいものである。そう思うのだ。



(アルフレッド・ヒッチコック) 


恐怖は、怒り、嫌悪、喜び、悲しみと共に、人間の基本的な感情である。

 生物学的感情を惹起させる、特定的対象に対する「得体の知れない恐さ」を持ったとき、副腎髄質から分泌されるアドレナリンによって、その特定的対象と戦う生理的反応の供給を途絶えさせる〈状況〉に自我が捕捉されてしまったら、人間はどうなるのか。怯え、慄き、震えるだけであろう。理屈で説明し得ない〈状況〉に呑み込まれた恐怖感の極点こそ、「得体の知れない恐さ」に対する無力感であると言っていい。

 この無力感を分娩させる「得体の知れない恐さ」を描き切った本作の凄さは、何より理屈で説明し得ない〈状況〉に呑み込まれた人間の、本来的な「脆弱さ」に肉薄し得た故である。

 「鳥が、なぜ人間を襲うのか」

 「餌」を枯渇させた猛禽類が人間を襲うなら、一定の説明がつくだろう。しかし、カモメが人間を特定的に襲うという〈状況〉を、誰が正確に、科学的に説明し得るのか。だから怯え、慄き、震えるのだ。

 この「得体の知れない恐さ」こそ、本作の全てと言っていいかも知れない。ヒッチコックは、最も弱き動物が人間を襲うという「得体の知れない恐さ」の極限を描き切ったのだ。自分より圧倒的に弱いと信じるものに襲われる恐怖が、そこにあるのだ。

この根源的問題が最後まで説明されない本作の物語構造こそ、本作の凄みであり、最大の成功因子だった。何より、本作の凄いところは、「核兵器という人間が生み出したものによって現れた怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品」(ウィキ)という、「ゴジラ」(1954年製作)映画に象徴される、如何にも取って付けたような、動物を「主役」した特撮恐怖映画に堕する欺瞞性を、べったりと 張り付ける愚を犯さなかったことに尽きる。

 或いは、ヒッチコック自身の観念の含みの有無を理解せずとも、「『文明』の象徴としての『バベルの塔』を作り出す、傲慢な人間に対する自然界の復讐」などという、安直なテーマ設定を拒絶した点にあると言ってもいい。大体、ヒッチコックの映像宇宙に、「深遠なテーマ」を要求する方がどうかしているのだ。

 更に、本作が素晴らしいのは、「『善』なるものとしての、襲撃された人間の、『悪』なるものとしての『鳥退治』」という、予定調和のハッピーエンドの解決をも蹴飛ばしているところである。それ故、本作は、人間の自己防衛機構としての「恐怖感情」を、最高の物語構成と、ヒッチコック流の凝った、映像を切り繋ぐカット割り(画面の転換効果)などの 巧みな表現技巧によって、テンポの良い演出を保証することで、マキシマムに表現し切った奇跡的傑作という評価を決定づけるに至る。

本作を形而上学的に、或いは、メタファーで説明し得る方法論も可能であろう。

「可哀想じゃない。可愛い小鳥を閉じ込めてさ」

 これは、妹への贈り物として、ラブバード(ボタンインコ)を買いに来た弁護士のミッチが、バード・ショップの店員に成り済ましたメラニー(本作のヒロイン)に放った言葉。

「放し飼いにはできませんもの」

 気の強いメラニーも、負けてはいなかった。

 「別の籠に入れるのは何の目的?」とミッチ。
 「種族を守るためです」とメラニー。

 この何気ない会話が、初対面のミッチへのリベンジ目的で、番(つが)いのインコを持って、ミッチが週末に戻るサンフランシスコの、ボデガ湾沿いの集落の実家に、いたずらを仕掛けに行くというユーモア含みの展開に繋がっていく。

 邪気のないメラニーの児戯的な振舞いだったが、このシークエンスの中で、そんな彼女が唐突に、湾内に巣食う一羽のカモメに襲われるという最初の受難に遭遇する。

 いたずら好きのメラニーの振舞いが示唆するものは、「放し飼いにはできませんもの」と言った彼女への、「鳥からのペナルティ」の初発の一撃だったという訳だ。そして、この小さな個人的アクシデントが、ここから開かれる異常な事件の発端になっていく。

 ボデガ湾沿いの集落に出現する鳥の大群。カラスだらけのジャングルジム。まもなく、その鳥の大群が人間を襲い始めたのだ。

以降の展開は、まさに人間を特定的に襲う、「悪魔」の使いをイメージさせる無秩序の世界。

 暖炉の煙突から舞い込んで来た鳥の群れ。目玉をくり抜かれていた農夫の死。軽食堂で、鳥の異常現象について語り合う人々の眼の前で出来する、「悪魔」の使いの「狂気」の乱舞。ガソリンスタンドの給油管からガソリンが洩れ、爆発と火災の連鎖。

ここまで書いたところで、私の主観の濃度の高い解釈。

私は本作を、シンプルに、「最も弱い動物」である鳥の群れが、この世で「最も強い動物」である人間たちを襲撃することで、最大級の恐怖感を与えたサスペンス ホラーであると把握しているが、敢えて、人間のドラマとしての本作を拾い上げるとすれば、前述したように、「この映画を一つの体験として生きてきた主役」(ヒッチコックの言葉)であり、中心的視点を占有し続けた「メラニー・ダニエルズの試練の物語」という風に考えている。

 全ては、彼女の悪戯から端を発し、それ故に受難に遭うという読解の方が、より説得力を持つと言えるからである。



ファニーゲーム(ミヒャエル・ハネケ) 


この世に蔓延(はびこ)る欺瞞・偽善・虚飾を撃ち抜く、ミヒャエル・ハネケ監督の真骨頂の一篇。暴力をテーマにした映画の中で、これほどの完成度の高い構築的映像は、かつて一度も観たことがない。恐らく、映像の完成度において、暴力をテーマにした最高到達点の映画であると言っていい。それほどの映像だった。

多くの観客を不快にさせ、置き去りにさせた伝説的映像として「悪名」高い、「ファニーゲーム」の挑発性の狙いが、「驚かしの技巧」を駆使した、「視覚に訴えるだけの暴力的描写の連射」を、どこまでもエンターテインメントの範疇で観客の気晴らしを保証する商業戦略の一環として、大袈裟なコンテンツを提供し続けるハリ ウッド映画の欺瞞と虚飾への最大級のアイロニーであることが容易に読解できるし、ハネケ監督自身もまた、「スリラーのパロディ」であるとも吐露しているのである。

 「虚構は、今、観ている映画。虚構は現実と同じくらい現実だ」

 これは、本作の中の、目的不明の2人の殺人鬼の主犯であるパウルの言葉。この時点で、既に、中流家族の3人の親子を殺害していて、次なるターゲットを屠るべく、2人は動き出し、カメラ目線のラストカットで閉じていくという流れにあった。

 注目すべきは、本作それ自身が「虚構の映像」であることを隠そうとしない演出を見せている点にある。

夏のバカンスを愉悦するために、湖畔の別荘へ向かうショーバー一家。ヨットを牽いたワゴン車内には、夫のゲオルグ、妻のアナの夫妻と、一人息子のショルシと愛犬が同乗している。

奇妙な「事件」が起きたのは、セーリングの準備をしている父子の留守のときだった。
 

夕食の支度をするアナの元に、唐突に、肥満気味の青年が訪れて、「卵を分けて欲しい」と言うのだ。当初、礼儀正しい態度を見せていたペーターの厚顔さを目の当たりにして、次第に神経を苛つかせるアナは態度を硬化させていくが、そこに、もう一人の青年が出現することで、事態は一気に暗転していく。

 もう一人の青年の名は、パウル。

二人の不気味な青年を相手に手こずっている妻を見て、夫のゲオルグは仲裁に入ろうとしても困難であることを実感する。ゲオルグは、恫喝するパウルの暴言に反応し、ものの弾みでパウルの頬を平手打ちにしてしまった。ゲオルグがパウルによって、ゴルフクラブで膝の辺りを打ち砕かれたのは、そのときだった。更に、車内に放り込まれた愛犬の惨殺死骸を見せるパウル。

「お前らは12時間で御陀仏(おだぶつ)かどうか賭けよう。生きてる方に賭けろよ。俺たちは死んでる方だ」

 「クローズドサークル」(出口なしのミステリー)とも言える、恐怖に満ちた殺人ゲームが開かれた瞬間である。

 まず、呆気なく殺されたのは、一人息子のショルシだったが、子供を銃殺したことで、一度は引き揚げた二人は、逃亡に頓挫したアナを連れて戻って来た。殺害の順番の筆頭がゲオルグと決めていたパウルは、その殺害過程や手段について、ゲームの続行を愉悦しようと言うのだ。

 「終わりにしよう。もういい。好きなようにやれよ。それで終わりだ」

 このとき、傷ついて苦痛に喘ぐゲオルグは、吐き出すように言った。

 「まだ、劇場用映画の長さに足りないよ。もういい?納得のいくラストを見たい?」

 ここでもパウルは、カメラ目線でそう言って、観る者を挑発するのだ。かくて、パウルの主導による殺人ゲームが延長されていく。

 「次に死ぬのは誰か、奥さんが決めていい。ナイフがいいか、それとも銃か」

 反応できないアナに、パウルは遊びの感覚で言葉を添えた。

 「へぇー、このゲームが面白くないか」
 
ゲオルグをナイフで傷つけて、アナに判断を迫っていくパウル。
 
 「ほんの短いお祈りを。お前が間違えずに逆さに言えたら、どっちが先に死ぬか決めていいし。こっちの方が切実かな。苦しまない銃を選んでも」

 パウルが、そう言った瞬間だった。妻のアナは銃でペーターを撃ち抜くが、慌てふためいたパウルは、「リモコンはどこだ!」と叫んで、映像を巻き戻し、物語を再駆動させるのである。既にこのシーンによって、本作そのものが「虚構の映像」であることを、作り手は敢えて見せている。だから、パウルによって巻き戻された「虚構の映像」は、ここでリセットされ、アナによるペーターの銃殺以前の状態にまで、「クローズドサークル」の物語が遡及するのだ。

 リセットされた「虚構の映像」が映し出す、「クローズドサークル」の物語の恐怖はおぞましいまでに陰湿であり、醜悪極まるものだった。まさに、アナによるリベンジの立ち上げを阻む、このリモコン戻しのリセットのシーンこそ、「奇跡の逆転譚」を懲りることなく垂れ流し続ける、ハリウッドのスリラーへの最大級のアイロニーであることが了解し得るのである。

「ほんの短いお祈り」を言えないことで、夫を銃殺するパウル。このショットの呆気なさこそ、本作を貫流する映像構成の特色であり、言うまでもなく、そこにハリウッドのスリラーへのアイロニーが張り付いているのは自明である。

ハリウッド映画における暴力描写に、決定的に欠けるもの。それは、継続的に暴力を受け、人間の尊厳を傷つけられた人格の、その圧倒的な恐怖のリアリティである。「正義・人道・弱者利得」という理念が、物語の中枢を占有しているからだ。

しかし、私たちが当然の如く決め付けている理念が、この映画には微塵もない。だから本作は、欺瞞・偽善・虚飾に満ちたハリウッドのスリラーを相対化し切って、それをお伽話のパロディとして屠るために、ハリウッド映画とは真逆の描写を随所に挿入していった。

 まず、ホラー効果を増幅させるための「驚かしの技巧」は、ここには全く駆使されていないし、暴力描写それ自身が描かれることはないのだ。何より鮮烈なのは、幼気(いたいけ)な少年を、その両親の前で、簡単に銃殺してしまうというシーンを挿入させていたこと。最初に、呆気なく子供が殺されるシーンなど、予備情報なしに、初めて観る者の誰が想像するだろうか。子供だけは助かるという、根拠なく勝手に決め付けている観客の、予約済みの物語の欺瞞を揶揄しているのだ。

 その幼気な少年の遺体が、いつまでもテレビ中継の煩い居間の中に転がっていて、テレビ画面には、少年の鮮血がべっとりと張り付いている。これは明らかに、ハリウッドのタブーとも言える描写の投入である。そして、我が子が銃殺されたその部屋には、両手足を縛られた母と、ゴルフクラブの一撃のみで骨折して動けなくなった父が、言葉すら出てこない恐怖に呪縛されて、「クローズドサークル」の狭隘なスポットに置き去りにされているのである。

 愛する我が子を喪った衝撃を受容し切れない二人の両親が、如何に、この危険な状況から脱するかという会話を交叉させた、10分間に及ぶ長廻しのシーンである。カーレースを放送するテレビ画面に大量の血が飛び散っていて、床には撃ち殺されたショルシの遺体が横たわっている。

 ここから、二人が立ち去った後の映像は、10分間に及ぶ長廻しのシーンが描かれるのだ。

 下着姿で両手足を縛られたアナが、何とか立ち上がり、ショルシの遺体に眼を向けることなく、腰を使ってテレビを消す。

 「行ったわ・・・行っちゃったわ」

 足を骨折して横たわっている夫に、確認を求めるように言葉をかけた。夫からの反応はない。

 「ナイフを持って来る」

 そう言って、縛られた状態のまま、両脚飛びで移動するアナ。居間に一人残されたゲオルグは、動かせない体を半身立ち上げるが、そこまでだった。号泣するゲオルグ。そこに、ナイフで紐を切り落し、自由になっていたアナが戻って来て、夫を抱きしめた。

 「落ち着いて。深呼吸して・・・お願い、あなた!いいわね。深く息をして。ここを出なくちゃ。戻って来るかも。支えたら、歩ける?」
 「やってみよう」

 粗い呼吸を続ける夫が言葉を発したのは、そのときだった。アナは渾身の力を込めて、痛みで苦しむ夫を担ぎ上げ、一歩ずつ移動していくのだ。

 「アナ、見るな!」

 息子の遺体に一瞥した妻を、制止する夫。ここで、10分間に及ぶ長廻しのワンシーンが閉じたのである。凄まじいまでのリアリティに、観る者は圧倒されるだろう。継続的に暴力を受けた者の圧倒的な恐怖の現実が、そこにあった。

 殆ど死を覚悟している心境下にあって、いつ襲いかかってくるやも知れぬ恐怖に震えながらも、必死に助け合おうとする夫婦の振舞いを描く長廻しのシーンに、少なくとも、私は異様な感動を受けた。身動き取れない夫を、担ぎ上げて移動するシーンは、ハリウッドなら「スーパーウーマン」の馬力を描くことで簡潔に処理したはずだ。

 しかし、本作は違った。無様とも見えるような格好をして、苦労して担ぎ上げ、容易に移動できない描写を延々と繋ぐのだ。この何気なくスルしてしまうシーンを描き切った作り手の、その人間心理の洞察力と観察眼の鋭利さに、私は言葉を失った。

 長廻しのシーンの直後、思わず吐き戻す妻を案じる夫に、なお気配りして笑みを送る妻の、人間の限界を超える辺りの行動を、ギリギリまで描き切った一連のシークエンスに、私は言葉を失ったのだ。

 何という、完成度の高さなのか。これは、人間ドラマとしても一級品なのだ。この辺が正当に評価できない批評家連中の偏頗(へんぱ)で、霞がかかったような劣化した能力よりも、遥かに高い映像作家の孤高性を感受した次第である。



マンハッタン(ウディ・アレン)


小心で神経質、コンプレックスが強く、臆病でありながら、人一倍の見栄っ張り。そんな男に限って、自分が「何者か」であることを求めている。

 件の男が主人公の本作もまた、「小説家を目指しているシナリオライター」という自己像が張り付いていて、勢い余って、テレビ局との関係を切ってしまった。虚栄と同居する小心さを持つ男は、このときばかりは前者の推進力によって駆動したのだろう。

男のトラウマの根源には、紛う方なく、バイセクシャルの性癖を具有する前妻が、人生の伴侶に「男」である自分よりも、同性の「女」を選んだことが横臥(おうが)しているだろう。

 そのことは、男の「男性性」が否定されたことにあると、男は考えたに違いない。男の自我に貯留された憤怒の感情が、前妻の不倫を疑った男がスパイ中に知った事実にショックを受け、前妻の不倫相手への女性を轢き殺そうとした行為に現れていた。

 「何で、僕より彼女の方が良いんだ?」

 あまりに端的な、男の感情表出である。

男の名はアイザック。「不惑」とは無縁な、小説家を目指している42歳のシナリオライターだった。

 そのアイザックが恋人にした「リスクが少なそうな相手」とは、自分の娘のように年の離れた17歳の女子学生。その名はトレーシー。

 この42歳と17歳のカップルは、寧ろ、後者の方が、父に近い男に恋をする関係を保持しているのだ。

 この関係様態は、男にとって好都合であると同時に、17歳の女子学生とのセックスを介して、崩されかけた男のアイデンティティを相応に復元したであろう。

「愛してるのはあなただけ」

 そんなことを吐露するトレーシーの存在こそ、アイザックの崩されかけたアイデンティティを埋めるに相応しい「パートナー」だった。まさに、最もリスクが少なそうな「パートナー」だったのだ。男にとって無垢で、人を疑うことを知らない少女の存在は、性を処理し、心を一時(いっとき)癒すに足る希少価値であったかも知れないが、どこかでいつも消化不良の気分が残っていた。

 深い教養に満ちた話題の不足感。そして何より、恋をしたときの「ときめき」の感情が希薄だからだ。

 そんな男が、一人の成人女性と知り合うに至る。親友の大学教授であるエールの不倫の相手で、その名はメリー。雑誌編集者のキャリアウーマンである。生意気でペダンチックながらも、話題を共通に持つ同世代の女性と出会ったことで、男の心は揺れ動き、見る見るうちに男女の関係にまで最近接していったのである。

 それは、成人女性への潜在的恐怖感を埋めるに足る、ローリスク・ローリターンの女子学生との「恋」の終焉を意味していた。アイザックとメリーの、ロマンチックなデート。夜のマンハッタンの散歩の終わりは、マンハッタン島に架かるクイーンズボロ橋(マンハッタンとクイーンズを結んでいる橋)の下のベンチだった。

 「きれいね」とメリー。
 「夜明けの光が美しい」とアイザック。
 「うっとりよ」とメリー。
 「実に偉大な街だ。魂を奪われてしまう」とアイザック。

成人女性への潜在的恐怖感が加速的に希釈化されていく感覚の氾濫は、まもなく、恋多き中年男の狡猾さを露わにしていく。17歳の女子学生との恋の、殆ど予約されたかのような決定的破綻である。

「もう、会わない方がいい」とアイザック。
「なぜ?」とトレーシー。
「僕にイカレ過ぎている」
「私は愛しているのよ」
「違うだろ。まだ子供だ。愛なんて分らない」
「でも、楽しいわ。セックスもいいし」
「まだ17だ。21までには男性関係も増える」
「愛してないの?」
「実は他の女を・・・」
「ホント?」
「君とは一時的なものと言っただろ」

嗚咽するトレーシー。身勝手な男の恋のタイトロープは、呆気ない形で終焉するに至った。

話題を共通に持つと信じる同世代の女性との関係幻想が、袈裟斬りに遭った者の悲哀を晒したのである。アイザックの親友の不倫相手だったメリーは、男の親友への愛を告白し、男から離れていったのだ。

「ショックだ」

怒りを真っ向勝負で激発できない内向性の故か、全てを失った男は、そう吐露するに留まった。心に穿たれた空洞感を埋めるべく、42歳の中年男は、アイデンティティークライシスに陥った者の如く瞑想に耽っていく。

「不必要な精神問題を、次々に作り出すマンハッタンの人々。それは解決不能な宇宙の諸問題を逃れるため。楽天的に考え、人生は生きるに値するか。生きがいは確かにある・・・」

「トレーシーと別れたのはバカだった。一番気の置けない関係は、あの子だけだ。でも若いからね」

 これは、親友の妻に吐露した言葉。

 縋り着きたい何かを求める男にとって、「これだけは失いたくないもの」に逢着したとき、その短躯を駆動させる熱量を自給するのに充分な行為に繋ぐのだ。

 マンハッタンの街の中枢を走って、走って、走り抜くアイザック。

 トレーシーに会いに行くためだ。ロンドンの演劇学校へ行く準備で忙しいトレーシーとの、間一髪の再会を果たしたアイザックは、自分の思いを吐露する。

 「行かないで」

 トレーシーに正直な思いを懇願しても、彼女の意思は固かった。

「愛があれば問題ないでしょう」
「君は変わる。半年で別人になる」
「そういう経験を積めと言ったのはあなたよ」
「でも、今変わるのは嫌だ」
「変わらない人もいるわ。」

既に、この会話の中に、「失恋」して初めて、「大人の世界」の狡猾さを学習し得たトレーシーの成長が垣間見えていた。ロンドンへの彼女の旅は、一向に変わり得ない42歳の中年男を置き去りにするものになるだろう。

中年男にも、その辺りの心理の機微は把握できている。

だから男は、必死に懇願したのだ。

懇願する以外にない男の哀感だけが、そこに露わにされていたのである。存分に軽薄なように見える男にとって、己がアイデンティティに関わる、真剣な人生の一大事を、男なりに動き、漂流し、傷ついた果てに置き去りにされたが、それもまた、男の変わり得ない人生の宿命であるだろう。どこにでもいそうな男の人生の断片を、ダッチロールする「恋模様」をテーマに描いた本作の等身大の「普通さ」こそ、ニューヨークの中枢であるマンハッタンをこよなく愛する、ウディ・アレンの真骨頂であった。

「昔の僕にはニューヨークを夢の国のように撮りたいっていう強い願望があったんだけど、その思いは『マンハッタン』で完全に満たされたんだよ」(「ウディ・アレンの映画術」エリック・ラックス 清流出版 井上一馬訳)

まさに、本作は「夢の国」という「おとぎ噺の世界」と、恋に生き、恋に敗れる中年男の人生のリアリティの溶融のうちに、そこはかとない人生の哀感を的確に表現し切った傑作である。



昼顔(ルイス ・ブニュエル)


本作の中で、ヒロインの自我が負っているトラウマは、一貫して〈性愛〉と〈人間の尊厳〉に関わるテーマであった。しかし、そんなヒロインのルーツに関わる描写の挿入は、僅か二か所でしかインサートされていないのだ。

 それは、少女期に野卑な男にレイプされたであろう過去、それ故に、件の少女が聖体拝領を拒絶する描写の二つである。観る者は、ヒロインの少女時代との心理的文脈の繋がりを軽視しがちだが、しかし、この添え物の如き二つの描写の挿入によっても、既に充分な説明になっていると言える。なぜなら、それは、自我の防衛機制によって封印したい忌まわしき記憶であるからだ。

 忌まわしき記憶の描写のリピートは、ヒロインの内面に寄せて考えれば擯斥(ひんせき)したい何かでしかないだろう。それ故、成人したヒロインは、穏和な人格像を印象付ける医師と結婚しても、その関係の中で排除されている〈性愛〉の欠落感によって、常に心身の均衡を危うくさせていた。

性的虐待を含む児童虐待経験を持つ女性が、その虐待のトラウマばかりか、〈真の愛情〉と、欠損した〈人間の尊厳〉の獲得というテーマを同時に解決することの困難さ、厄介さの現実を無視してはならないということである。

 因みに、児童虐待者の克服課題とは、第一にトラウマの解消であり、第二に〈真の愛情〉の獲得であり、そして第三に〈人間の尊厳〉の復元である。

 しかし、愛する夫に対して、内深く抱え続けてきた心の闇を解放できないヒロインにとって、トラウマに端を発する負い目ばかりか、聖体拝霊を拒絶させざるを得ないような、「自分は不浄な女である」、「自分は生きる資格のない女である」などというネガティブな自己像による、〈人間の尊厳〉の欠損感覚、そして、 なお拘泥する〈真の愛情〉関係の構築の問題を同時解決するのは、現状維持の生活の中では極めて困難だった。何より、現状維持の生活の延長によっては、彼女の自我を充全に満たすことがなく、そこに決定的な欠落感が生まれていたからだ。

 〈性愛〉を排除した夫婦の関係の正常化は、絶えず、ヒロインの「夫に対する負い目」を累加させていくことで益々困難になっていったのである。

 従って、彼女の中に封印された性的欲情は、感情関係の生じない娼館の中で処理される外になかったのだ。かくて、「昼顔」に変容した彼女は、封印した情欲の処理で得た快楽を手に入れるのだ。そこで罪責感に苛まれる深刻な事態は出来しなかった。そのことは、〈性愛〉を排除せざるを得ない、「夫に対する負い目」=「心理的負債」の「清算」という大義名分が張り付いていただけでなく、或いは、それ以上に感情関係の生じない「男」との〈性〉を、誰に気兼ねもなく処理できる気楽さが、一人の「女」の裸形の自我を解放させたことを意味するだろう。

 然るに、そんな彼女の非武装性が、殆ど予約された悲劇を惹起させるのだ。娼館の中で出会った野卑なチンピラの、理屈を超えた暴力的侵入を受けたことで、彼女の肉体と精神は、このようなトラウマを持つ多くの女性の例が示すように、このようなタイプの男に惹かれていく脆弱さを露呈したのである。哀しいことに、性的虐待を受けた女と、その対極にいる、虐待的な男との関係は相互に惹かれ合う傾向を持ち易いのである。従って、このような女の脆弱さは、まさに、そのような女をこそ征服したいと望む男の、理不尽なる攻撃的な欲求にとって好都合なのだ。本作のヒロインは、この危険なトラップに嵌ってしまったのである。

 そして、そこで開かれた危うさが、本作の悲哀を極めた物語の最終ステージにまで運ばれるに至ったのである。野卑なチンピラの攻撃的な欲求が、理不尽な暴力に転嫁したとき、自分が最も愛する夫の肉体を半壊させる事件を媒介することで、初めて彼女は、自分の中に潜在する歪んだ欲情の稜線を伸ばすことの危うさを認知し、このような女性が本来的に求めていたであろう、安定的な愛情関係の構築をこそ求める心理に辿り着 く。

要するに、不自由な夫を自らが献身的に介護することで、少女期以来の、「自分は不浄な女である」という意識による人間の尊厳の欠損感覚を復元させ、また、「第3者」 (ユッソン)を介して夫への告白を果たすことで、トラウマに端を発する負い目を解消し、いつの日か、それらを包括し得る真の愛情関係の構築の問題を同時解決する可能性を得るという、予定調和の近未来イメージを紡ぎ出す心理である。

 そんなヒロインの、幻想の浮遊する予定調和の近未来イメージの中にあって、〈性愛〉の欠落に起因する負い目と切れたヒロインは、自らが供給する愛情の継続性を確認することによって、少なくとも、夫に対する負い目の原因となった、一切のネガティブな感情を自己昇華させていくように見えるのだ。それが、半壊した夫が、唐突に健常化する妄想を挿入したラストシーンの意味であり、且つ、冒頭のシーンで見られた、「夫に対する負い目」=「被虐の象徴」としての、馭者による陵辱の「悪夢」が反転して、誰も乗る者がいない馬車の構図に繋がったのである。彼女の中でトラウマが浄化され、〈性愛〉という厄介なテーマを越えたであろう、自我の安寧と内面的調和の問題が主観的には遂行されたのだ。

 穿った見方をしなければ、本作は、そういう厄介なトラウマを負ったヒロインの内面過程の振幅を描いた、極めてシンプルだが、芸術的完成度の高い映像作品として把握し得るであろう。しかし残念ながら、彼女の予定調和のラストシーンは、どこまでも彼女の主観的願望による妄想に過ぎないのである。

 なぜなら、それは、このようなトラウマの記憶を持つ者が、相当程度の高い確率で、その屈折した人生を頓挫させていく航跡をなぞっていく物語であるからだ。このような過去を持つ哀しい性(さが)の延長線上に開いた、野卑な男との激しい憎愛という事態が惹起した悲劇もまた、彼女のトラウマが捕捉した、一種の必然的な現象であったと言える。

 その結果、絶対にあってはならない悲劇を生み出し、その悲劇の最大の被害者である夫が、事件の顛末に関する情報を知ったとき、果たして、「最愛の妻」のイメージで固めていた対象人格を完全受容するだろうか。

 そのことを考えるとき、彼女が手に入れようと切に望んだはずの〈真の愛情〉の獲得は、より困難になったと言わざるを得ないだろう。哀しいかな、それが予約された生き方を強いられてきた女の、不幸なる人生の理不尽な流れ方であった。彼女の残りの人生もまた、そこに新たな不幸を加えたイメージをなぞっていくしかないのだろう。

 彼女の予定調和のラストシーンの悲哀こそ、彼女が負い続けてきた重い十字架なのである。

最後に、本作を、その根柢において支配した男のことに言及しない訳にはいかないだろう。

 「第3者」としてのユッソンである。彼こそ、悪魔の記号であるメフィストフェレスではなかったか。

 ラストシークエンスにおけるユッソンの果たした役割の行使、即ち、「君のことを話す。初めは苦しんでも、楽になれる」と言って、ヒロインの夫に告知した行為の狙いが、「僕が惹かれたのは貞淑な君だ」という彼の言葉を想起するまでもなく、「献身的で貞淑な妻」としてのヒロインへの欲情を惹起させることにあったと考えるのは自然であるだろう。

 それが、「人生は女だけさ」と言い切る男の、極上の至福に叶ったトラップだったと言えないだろうか。これは同時に、ユッソンの物語であったのか。そんな風にも思われる、残酷な映像だった。



蜂蜜(セミフ・カプランオール)


最後まで、観る者の主体の内側に、「解釈の自在性」を担保させない「虚構の感動譚」の、何とも言いようがない軽量感。そんな「虚構の感動譚」の言いようがない軽量感と明瞭に切れた、本作の最も評価すべき点は、吃音症の児童が、唯一、言語交通の可能な父との密かな会話が拾われているだけで、一切の描写が、映像の固有の表現世界のみで勝負しているという、その一点にあると言っていい。

 映像の固有の表現世界が提示する構図の大半が、特定 的に切り取られた一幅の絵画であり、感傷を誘(いざな)う音楽の代りに、後述するように、「野生の動物のざわめきと鳴き声、夜の鳥、突然吹く風、日中止まずに降る雨、緑の何十もの異なるトーンとただよう霧」(セミフ・カプランオール監督による表現)等々の、自然が醸し出す効果音で埋め尽くされるのだ。行間を語らないことによって提示された、充分な余白を埋めるに足る知的過程を保証する映像構成を構築していて、蓋(けだ)し圧巻だった。

トルコ東部、アララト山近くに住む、養蜂業を生業(なりわい)にしている3人家族の物語の概要は、数行で済んでしまう程に簡潔なものだったが、その内実の濃度の高さは一頭地を抜く出色の出来栄えだった。

極相林に近い「森林」(後述)に囲繞されて、身過ぎ世過ぎを繋ぐ3人家族の中心に、父親ヤクプが居て、危険を顧みない父の仕事に憧憬の眼差しを注ぐ、一人息子の6歳の児童ユスフ。吃音症で悩むユスフは、学校での読誦(どくしょう)の時間が大の苦手。

 そんなユスフの吃音症状から、言語を奪い取る甚大な「事件」が出来したのが、突然の父の失踪だった。

 懊悩する母と、その母に心配をかけまいと努める、6歳の一人息子に襲いかかってくる不幸を描く物語は重々しいが、一貫して、絵画的空間の神秘なる世界に誘(いざな)う映像美は抜きん出ていた。森の奥深くに、荷物を背負わせた驢馬(ろば)を引いて、這い入って来る一人の男。

 ユスフの父親ヤクプである。大樹を探していたヤクプは、特定した樹木に自前のロープを投擲(とうてき)し、見るからに高い樹木を登っていくが、ロープを引っかけてある枝が軋(きし)みかけ、男の体重を支え切れず、折れてしまった。

 そのまま落下したが、運良く、枝が完全に折れることなく、途中で止まったのである。しかし、身動きが取れなくなって、宙吊りの状態になったヤクプの必死の表情が、激しい呼吸音を伝えながら、アップで映し出されたのだ。

 それだけのシーンだが、そこから開かれる物語に、少なくとも、陰翳感のイメージを付与するのに充分なオープニングシーンだった。

父の失踪以来、すっかり言葉を失ってしまったユスフは、その日もまた、苦手な読み書きの授業を迎えていた。

 「読んでごらん」

 決して生徒を差別しない誠実な教諭は、ユスフから言葉を復元させようと指名したのである。必死に発語しようとするユスフの表情を視認して、「よくできた」と褒める教諭。

 「ユスフに拍手を」

 教諭の一言で、クラス全員からの拍手が、教室中を反響する。

 「ユスフ、前に出て」

 教諭に督促され、前に出るユスフ。

そして、音読が上手な生徒の証明であるバッジを、教諭から付けてもらって、その喜びを、家で待つ母に伝えようと必死に走って帰っていくユスフが、近道をして森の中を上り切ったとき、その耳に入ってきた言葉に、思わず立ち止まってしまった。

 「黒崖で事故に遭ったらしい。今、運んでいる。お気の毒に・・・今は待つしかない。神の御慈悲を・・・」

母の啜り泣きの声が漏れ、ユスフの表情が、見る見るうちに暗鬱になった。

ユスフは、たった今、上って来た森の中を下り、途中で学習教材の入っているリュックを放り投げ、森の奥に踏み込んでいく。野鳥の鳴き声を間近で聞いて、一瞬、立ち止まった。そこから、また走り始め、ぐんぐん、深い森の奥にまで突き進むが、それは、父の仕掛けた巣箱を求めて探しているようでもあった。

 一時(いっとき)、恐怖を忘れた児童が、深い森の暗みまで潜り込んでいって、一本の大木の根元の辺りで横たわっていく。そこは、雷鳴が轟き、動物の鳴き声が木霊し、木々が風で掠れ合う音のする、生態系の神秘なる世界。

 いつしか、自然の只中で、ユスフの呼吸音は寝息に変わり、一つの掛け替えのない命を吸収していった。このラストカットでフェードアウトしていく構図の意味に、「父の葬送のイニシエーション」とか、「自立歩行への、その初発の象徴的表現」などという観念系の含みを持たせる意味など必要ないだろう。

 6歳の児童の自我に、そのような観念系の文脈が分娩できる訳がないのだ。ただ、未だ6歳の児童には、父の匂いを嗅ぎたかったに過ぎないのだろう。

 そこで想起されるのは、映像序盤での、父と子の「秘密の共有」のシーンである。

 「夢を見たんだ。僕が木の下で座っていて、星たちは・・・」

 ユスフがここまで話したとき、父はユスフの言葉を制した。

「夢を人に聞かれちゃだめだ。耳元で話して」

そう言われたユスフは、父にだけこっそりと夢を囁いた。

「話しちゃダメだよ」

それが、ユスフに語った父の言葉だった。

一体、このとき、6歳の児童が見た夢とは何だったのか。ここで想起されるのが、オープニングシーンで、父が滑落して、中途で止まっていた場面である。

 恐らく、ユスフが見た夢とは、この場面であるように思われる。滑落しても死ぬことなく、そこから再び大樹を登っていくイメージの中で、ユスフは、「強い父」を憧憬する思いを吐露したかったのだろう。画面には映し出されなかったが、「悪夢」のイメージに流れない構図のうちに、ユスフが目覚めたのだろう。だから、「強い父」のイメージだけが再生産されていったのではないか。

 しかし、この夢には残酷な続きがあった。父の失踪以来、すっかり言葉を失ってしまったユスフが、再び見た夢は、その大樹を登っていくことが叶わず、中途で止まっていた状態から、本当に滑落してしまう夢である。

 そして、この夢は、正夢になってしまったのだ。ユスフの中で、ずっと、この夢の恐怖が取り憑いて離れなったに違いない。だから一層、失った言葉の復元が困難になってしまったのだろう。正夢になってしまったリアリティの中で、6歳の児童が選択した行為 ―― それは、夢の中で見た大樹を探し、そこで父の匂いを嗅ぎたかったのではないか。

 ただ、それだけだが、それをしなければ済まない情動が、6歳の児童の自我を噴き上げていったのだろう。そのように解釈し得る、ラストカットの構図の決定力の凄み。

 それが、本作に対する私の把握である。様々な含みを持たせた映像の完成度は、抜きん出て一級品だった。



ミツバチのささやき(ヴィクトル・エリセ)


広義に解釈することで、異なった風景が見える映画  ―― それが「みつばちのささやき」だった。

“昔むかし 1940年頃 カスティーリャの、ある村での事”

これが、童画の挿絵を挿入した本作の冒頭のキャプション。既に、このキャプションのうちに、本作が極めて寓話性の高い作品であることを暗示している。1940年という年を、「昔むかし」という言葉で括る辺りに、精緻に構成された寓話性の中にリアリズムを挿入した映像の戦略性が窺えるのである。

思うに、1940年という年は、スペインにとって決定的な年であった。その前年に、3年間に及ぶスペイン内戦が終焉したからである。

スペイン内戦が、ヘミングウェイやアンドレ・マルローに代表される、「人民戦線」を支援する国際義勇軍も派遣された「美談」とは裏腹に、多くのアナーキストや、非コミンテルン系のトロツキストを巻き込んだ、まさに「人民戦線政府」の内部抗争によって自壊した史実を無視できないだろう。

だから本作が、民主化が少しずつ始まっていたとは言え、公営の映画産業の発展と反比例して、民間の映画制作会社の活動が困難な現実の渦中にあって、独裁政権の厳しい検閲の網の目を掻い潜(くぐ)りながら、歴史のリアリズムの含みを有した作品として構築されていたと考えるのは、寧ろ自然であるだろう。

遥か地平線の彼方に、いつも重い雲が垂れ込めているような、荒涼とした大地の印象を拭えない土地、それがカスティーリャだった。そんなスペイン中部の小村で、比較的大きな邸を構えた一家が住んでいる。

養蜂業を営む初老の夫と、年の離れた印象を与える妻。フェルナンドとテレサである。この夫婦には、二人の幼い姉妹がいる。イザベルとアナである。

愛くるしい黒い瞳が印象的な、アナの視線によって語られる物語の大半は、姉妹を中心にした4人家族の、淡々とした日常性を繋ぐ構成になっているが、映像序盤からボイス・オーバーされてきた、「皆、一緒に幸福だったあの時代は戻りません・・・」という文言で始まる、母テレサの宛先不明の手紙の内実には、決して「幸福家族」という印象を与えない、殺伐なファミリーイメージが張り付いて いた。

一方、夫のフェルナンドは、養蜂業に専念する中で、「このガラス製のミツバチの巣箱では、蜂の動きが時計の歯車のようによく見える・・・」という文言で始まる、ポエムのような観察記録を書き綴っていた。

ここで看過し難いのは、「この様子を見た人は驚き、ふと、眼をそらした。その眼には、悲しみと恐怖があった」という最後の部分を、本人がラインを引いて抹消してしまうカットである。

「幼虫を待つのは労働のみ。唯一の休息たる死」という表現には、明瞭に、フランコ独裁政権下の民衆の「悲しみと恐怖」のイメージを想像させるものがある。その部分を抹消してしまうフェルナンドには、「過去を封印する男」という人格像が炙り出されるのである。

「人嫌いのあなた」というテレサの把握には、恐らく、スペイン内戦で人間不信に陥った夫の印象が張り付いているように思われる。そのフェルナンドは今、ミツバチの群れを前に、自宅軟禁を余儀なくされ、失意のまま逝去したウナムーノがそうであったように、容赦なき共和派狩りの結果、殺戮の歴史を刻んだ、抑圧的な独裁政権を批判する印象を与えるポエムを書き、それを抹消してしまったことで、今や、「過去の共和主義者」であった男が、王党 派や地主層などの保守派によって構成される、フランコ独裁政権の体制側に吸収されてしまっている事実を検証するものであった。

 「過去に生きる女」と「過去を封印する男」が、かつて睦み合ったような夫婦を延長させるのは極めて困難であったに違いない。

「過去に生きる女」と「過去を封印する男」が儲けた、二人の幼い姉妹、即ち、イザベルとアナの自我が屈折することなく、健康的に育っていったのは、二人の存在だけが、夫婦の拠って立つ自我の安寧の絶対的基盤であったからだろう。

 だから姉妹は、愛情深く育てられ、子供が普遍的に体験する様々な遊びの世界に熱中できたに違いない。しかし、姉のイザベルと違って、あまりにナイーブなアナの存在感は、他の子供たちが簡単に遣り過ごしてしまうような事象に強く振れてしまうのである。

その中で、巡回映画で観た「フランケンシュタインの怪物」と子供の死に、「恐怖誘導」されたアナの反応には、アナにしか見えない、「善きもの」である精霊のようなイメージが張り付いていた。

何より、観る者が気になるのは、アナにとって、「フランケンシュタインの怪物」とは何だったのか、ということだろう。

以下、私の勝手な読み方を書き散らしてみたい。

アナにとって、「フランケンシュタイン」とは、フランコ独裁政権によって壊滅させられた「人民戦線」の象徴である。前述したように、「人民戦線」は反乱軍による壊滅に先んじて、ドロドロの内ゲバによる自壊的現象が決定的な敗因と化したと考えるからである。

「フランケンシュタイン」という名の偏狭な科学者が創造した怪物は、他者によってコントロールし得ない「主観の暴走」の挙句、シリアルキラーになっていく。そして、村人たちの恨みを買って、滅ぼされてしまう運命に流れ着いていくのである。まさに、自らの存在を破壊せしめる怪物こそ、「フランケンシュタイン」それ自身であったという訳だ。

怪物の自壊の氾濫は、無垢の子供たちをも屠る惨状を晒すまでに内部崩壊してしまうのである。

 「非武装なるイノセント」であるアナは、自壊する「フランケンシュタインの怪物」に乗り移った、良心的な共和派の果たせぬ「夢」を捨て切れない「人民戦線」の亡霊に憑かれて、その「悲哀」を限りなく拾い上げ、脱走兵への援助行為に自己投入していくのである。

 それは、どこまでもアナにしか見えない、「善きもの」である精霊への同化であった。

 しかし、世俗の現実の世界に引き戻されるに及んで、果たせぬ「夢」を捨て切れない「人民戦線」の亡霊が、その存在を許容しない者たちによって破壊されたとき、「善きもの」である精霊の抜け殻だけが虚空を舞っていた。亡霊を破壊したと信じる父を拒絶したアナは、ひたすら、その虚空を求めて冥闇(めいあん)の時空を彷徨するのだ。

 そこで邂逅(かいこう)した、「フランケンシュタインの怪物」によって救済されたアナが、妄想の世界から解放されたとき、「善きもの」である精霊の相貌の片鱗すらも見えなくなっていた。果たせぬ「夢」を捨て切れない「人民戦線」の亡霊が、アナの幼い自我の、小さな懐の奥深くに吸収されてしまったのだ。

 アナは、このとき、果たせぬ「夢」を未来に繋ぐリレーランナーと化して、新たな自己を立ち上げたのである。

「お友達になれば、いつでもお話できるのよ。眼を閉じて、呼びかけるの。”私はアナです”」

それは、「幼児」と「児童」との微妙なラインを渡り切って、もう、「善きもの」であると信じる精霊に呼びかけても一向に現れ得ない、新たな自己の立ち上げのイニシエーションに関わる小さな自己完結だったのだ。「善きもの」である精霊の存在を必要としない辺りにまで、アナは疾走していたのである。

 疾走の重量感が、束の間、生命の息吹を奪っても、懐の奥深くに吸収されてしまったものの力学が機能すれば、必ずや復元するのだ。

 「アナは、まだ子供なんだ。ひどい衝撃を受けてはいるが、時がたてば治る。大切なのは、あの子が生きているって事だ。アナは生きている」

 心配する母テレサに、担当医はきっぱりと言い切った。

 安堵する母。

彼女はもう、「過去に生きる女」ではない。アナが失踪したとき、彼女は確信しただろう。自分には、過去から手に入れる何ものをも持ち得ないのだと。だから、投函予定の手紙を燃やしてしまったのだ。過去と決別したのである。

 「人嫌いのあなた」と呼んだ夫に、コートをかける妻が、そこにいた。

これは、詰まる所、「家族の再生」の物語だったのである。



ニキータ(リュック・ベッソン) 


本作の中で最も重要なシーンは、物語を実質的に前・後編に分けたと言えるバスルームのシーンであり、このシーンなしに本作の訴求力の高さを語れないだろう。

初めて、形ばかりの自由を得た秘密工作員としての女テロリストが、最初に請け負った仕事が単なるホテルのメイドでしかなかったが故に、「炸裂するヒロイン」にとって、相当程度、「任務」を甘く見た印象の余韻で、弾けるような歓びを体現した辺りは、観る者の度肝を抜くような、文字通り、「出口なし」のレストランでの凄絶な銃撃戦を展開した、「命を賭けた卒業テスト」の苛烈さをパスしたとは言え、まだまだ、暴走無頼のイメージの濃厚な女テロリストの印象を拭えなかった。

暗殺指令を受けた「炸裂するヒロイン」は、バスルームで組み立てた銃を持って、目標の人物に狙いを定めているとき、隣室にいるはずの恋人のマルコから、ドアの向こうから呼びかけられた。

「君が過去に何をやったか知らないが、心は傷だらけで暗い影を負っている。君が恐ろしい罪を犯したとしても構わない。打ち開けて欲しい」

銃を構える「炸裂するヒロイン」に、涙ながらに訴えるマルコ。

そこに無線が入り、栗毛の女への暗殺指令が入って、サプレッサー(消音器)装着のステアーAUGを構えるや、狙いを定めて射殺した。

そのとき、反応のない婚約者の振舞いが気になって、マルコが苛立つように入室して来た。

瞬時に、銃を浴槽に隠す女テロリスト。3年間にわたって鍛えられた反射神経のスキルが、こういう事態で発現されてしまう程、この「炸裂するヒロイン」は、秘密工作員としての負の相貌を露わにするのだ。

反応のない婚約者の振舞いに苛立って、マルコが立ち去っていく。置き去りにされた「炸裂するヒロイン」の頬を、液状のラインが濡らしていく。

それは、「炸裂するヒロイン」の「非抑制的・非内面的ワールド」から、「抑制的・内面的ワールド」への「内的表現」を身体的に繋ぐ、決定的変容の象徴的瞬間(とき)を刻んだ物語の始まりを告げるものだった。

マルコの訴えに心が揺さぶられ、涙を見せた女テロリスト。「炸裂するヒロイン」にとって、バスルームの一件は、自分が得た自由が限定的なものであり、自らの欲望の稜線を伸ばしていける甘い幻想を断ち切ってしまうほどの苛酷なミッションである現実を、初めて実感的に知らしめられたのである。

それでも婚約者との愛を育んでいく「炸裂するヒロイン」は、かつて経験したことがないような、その固有の内的行程の稜線を伸ばせば伸ばす程に、困難な任務の頓挫の中で露わにされた裸形の人間性が、心奥に眠る未知のゾーンに踏み込んでいくという隘路に捕捉されてしまうのだ。何よりも、「炸裂するヒロイン」の「抑制的・内面的ワールド」への変容は、スーパーのレジ係であるマルコの存在の決定力によって具現されていくのだ。

3年間封印されていた性的衝動を満たすためにアプローチしたに過ぎないハンサムボーイとの関係の中で、「抑制的・内面的ワールド」への「内的表現」を身体的に繋ぐ決定的変容を具現していったのは、相手の男が自分に対して本気で愛情を注いでいることを知ったからである。

「愛される自己」としての価値を初めて経験したに違いない「炸裂するヒロイン」には、「愛される自己」としての価値を噛み締めることで、相手に対する愛情をも育てていく。愛する対象人格を持つということは、絶対に失いたくない特定的なるものへの価値を持つことと同義である。

絶対に失いたくない特定的なるものへの価値を持つ人間の普通の営為が、ごく普通のレベルで経験的に累加していくことで、そこにどんな大義名分があろうとも、女テロリストとしての存在の有りようが根本的に問われてしまうのである。

人を愛することで失いたくない対象人格の価値を内面的に累加していくことで、他人の命を奪うことの残酷さを実感したのだ。失いたくない対象人格の存在価値を知ってしまったら、もう、失いたくない対象人格を普通に持つ者の命を奪うことが困難になるということ。これが、本作を根柢から支える基幹メッセージと言っていい。

だから彼女は、今まで自らが犯してきた「罪」のほんの一端を感受したのか、愛する男を占有することへの心理的推進力の熱量を奪われてしまった。

政府直轄の国家機密機関の秘密工作員である、ボブとのラストシーンの会話の中で、マルコが言うように、彼女は意に反した任務の遂行を通して、自らが犯してきた「罪」を償ってきたのだと大甘に許容する人には、「炸裂するヒロイン」の逃亡は成功したと思うかも知れないだろうし、或いは、 それを否定する人には、彼女の逃亡は頓挫すると考えるかも知れないだろう。

そして、印象深いラストシーン。

ボブに同行した秘密工作員を街路に待たせて、自分一人だけの訪問を果たすボブの振舞いのうちに、マルコとのプライバシーに関わる話を秘匿している事実を顕在化させていた。

「炸裂するヒロイン」の逃亡で、置き去りにされた寂寞感を噛み締めて、静かに語り合う二人の男。

マルコとボブである。

既に、事情を知悉(ちしつ)する二人の男の会話は、「炸裂するヒロイン」が犯してきた「罪」についての問答だったが、彼らの主眼はそこにない。「炸裂するヒロイン」の安全確保への問題意識こそが、彼らの情感を動かしているようだ。

「私にどうしろと?」とボブ。

この言葉のうちに、「炸裂するヒロイン」の安否を気にする思いが滲んでいる。

「彼女を守ってくれ」とマルコ。
「やってみよう。だが、彼女の立場は危険だ。機密情報を持って消えた」

ボブの訪問目的が吐露されるが、どこまでも「炸裂するヒロイン」の安全確保への問題意識が、「時代状況の閉塞感」に則して造形されたこの男の言葉の底流にある。ここで、マルコは機密情報のマイクロフィルムを手渡すが、もう、あとは「炸裂するヒロイン」を失った男たちが寂寞感を共有する時間に流れていくだけだった。

マイクロフィルムの入手を最優先事項にしていたボブの関心は、それを手に入れた安堵感をクリアしたら、思いを寄せた女からの伝言のメッセージ以外になかった。既に入手したマイクロフィルムの封筒を弄(まさぐ)る様子は、殆ど、初恋の相手からの心情吐露のアウトリーチへの、チャイルディッシュな飢えの感情の発露と言っていい。

「あなた宛ての手紙は僕が破った」

あっさりと言ってのけるマルコ。

この物言いには、「炸裂するヒロイン」のボブへの手紙の内実が、ボブへの好感と、別離の寂しさが表現されていたらしいことを暗に伝えていて、文面を尋ねるボブへの素っ気ない態度に現れていた。それがマルコの嫉妬を露呈するものだったが故に、「抑制的・内面的ワールド」に振れていった、「炸裂するヒロイン」を巡る静かな恋のゲームが、悲哀の「痛み分け」に嵌らなかった軟着点への括りのうちに閉じていくことになったのだろう。

「お互いに寂しくなるな」とボブ。

マルコの嫉妬を見透かした余裕を乗せつつ、笑みを湛えた後の男の言葉である。

「ああ・・・」とマルコ。

それ以外にない反応を返す男もまた、裸形の感情を隠さない眼の前の男との共有感覚を、束の間、分かち合っていた。この短い会話が、二人の男の寂寞感を伝えて閉じる映像は、余情の残るラストカットだったと言える。

余情含みで閉じていく本作は、若き日の情動を推進力にして構築した、リュック・ベッソン監督のブレイクスルーポイントとなった重要な映像であった。



マルホランド・ドライブ(デヴィッド・リンチ)


虚飾と頽廃の象徴としての「ハリウッド」で夢を叶えたレズパートナー(カミラ)を殺害した後、ハリウッドで夢を砕かれた女が自死(?)するに至るという、羨望と嫉妬、裏切りと復讐の心理を基本骨格にした、本作のヒロインのドロドロの愛憎劇を見るとき、「叶えられなかったシンデレラ・ストーリー」が、自罰によっても解決し得ない「夢」のうちに執拗に再現され、そこで暴れて止まない心情の劇的な炸裂として、「予定不調和」の究極の悲哀を炙り出していく映像の決定力は、単に、「夢」をフル稼働させた物語構成の「初頭効果」のインパクトの次元を突き抜けていたであろう。

それは、ラストを20分に待機していた、「現実」と思しきシークエンスとの圧倒的落差よって、ヒロインであるベティ=ダイアンの心情世界にべったりと張り 付く、「破れ去りし者の究極の地獄巡り」の様態を、否が応でも増幅させる高度な表現力を検証し切ったという一点にあると言っていい。

 本作は、ヒロインの「夢」をフル稼働させた物語構成の「初頭効果」のインパクトをも存分に呑み込むことによって、ヒロインのジルバ大会での地元優勝という冒頭のシーンから、攪乱し続けた果ての結末的なイメージを提示することで、観る者に、それ以外にない「余情」を保証し切ったのである。

 ハリウッドの虚飾の世界を剔抉(てっけつ)した、ビリー・ワイルダー監督の「サンセット大通り」(1950年製作)の毒素の濃度をマキシマムに高める
本作の凄みは、絵画的な構図の精緻さにおいて一級の完成度のうちに顕示されていた。

 デヴィッド・リンチ監督は、今や、他に比肩されるべき映像作家の存在を、悉(ことごと)く周回遅れにさせてしまったようだ。

 映像に結ばれる個々の構図が、既に独立系の価値を持ち、それらが、ドロドロの愛憎劇を希釈化する、「現実」と思しき世界からの局面防衛戦略のシュールな展開のうちに収斂させる技巧を開いて見せたのだ。

ヒロインの「夢」の中で錯綜し、氾濫していた情報の中で、そこだけはリアリティが被されているだろう、羨望と嫉妬、裏切りと復讐の心理を推進力とする、「ダイアンのカミラ殺し」と、「シンデレラ・ストーリー」 をレズパートナーに奪われた挙句、パートナーを呆気なく代えたさまを、自分に見せつける行為の鈍感さに張り付く、女の「支配感覚」の自己顕示への破壊情動こそが、ダイアンの復讐の基本モチーフになっていたであろうということ。

 しかし、この辺りについても確信的に言い切れないところが、この目眩(めくる)めく訴求力の高い表現宇宙の力技を感受せざるを得ないのだ。このことは、ゲームの如き謎解きにのみ収斂させる、訳知り顔の「読解」の末梢性を相対化する、作り手からの痛烈な一撃になるだろう。

 要するに、「知的過程」を梃子にして、映像総体を「解読」しようとする者たちの理性的視座を攪乱させること。それこそが、妄想と倒錯の「非日常」の世界を、一貫して自己基準で遊泳するリンチ監督の映像の戦略なのだ。

 私にとって、最も印象的なのは、「『異界の劇場』と思しきクラブ・シレンシオ」のマジシャンの突き抜けた言辞である。

「楽団はいません。これは全部、録音したものです。ここに楽団はいませんが、演奏は聞こえます。クラリネットを御所望なら、ほら、」

そう言って、クラリネットを演奏する音を流す「異界の劇場」。 更に、トランペッターをステージに出して演奏させるが、肝心のトランペットを手から離しても、演奏が聴こえることを証明してみせたのである。

 「楽団はいません。これは全部、テープです。オーケストラはいない。これらは全てまやかしです!」

 トランペッターが演奏していると信じている振舞いを、「現実」と安直に信じることの空虚さを、このマジシャンは言い放って見せたのだ。

 これは、「『異界の劇場』と思しきクラブ・シレンシオ」のマジシャンが、恰も、疎(まば)らな観客の中の二人の女(ダイアンとカミラ)を、特定的に指定したかの如く放った言葉。

 「一切は幻想なのだ」

 そう言いたいのだろう。

 要するに、観る者が、ゲーム感覚で「読解」の醍醐味を味わう「知的過程」を相対化してしまうのだ。

様々な「謎解きの因子」の主要なものは、「よう、彼女、起きる時間だぞ」というカウボーイ(「夢の剥奪者」=死神?)の言葉によって開かれた、ラスト20分の、「夢の自壊の現実」(?)と思しきシークエンスの中で、物語が舞台演劇だったことを暗示(?)するラストカットでの、女性の「静かに」という一言を含めて、観る者なりに自在に解釈し得る軟着点を用意させていて、まさに、束の間、「非日常」の、一種蠱惑(こわく)的な魔性の時間と戦略的に遊ぶことで手 に入れた潤いが、そこで拾われるに至ったのである。

 本作は、私にとって、デヴィッド・リンチ監督の凄みを再確認させる、紛れもなく一級の映像宇宙の一篇だった。



セブン(デビッド・フィンチャー)   


デビッド・フィンチャー監督の渾身の一作である本作は、特段に、「現代社会の荒廃」という訳の分ったような物言いをせずとも、その時代状況の性格に見合いながら、ある一定の確率で出現する、猟奇的なシリアルキラーが抱える心の闇の歪んだ風景と、有無を言わせずに、その闇の世界にインボルブされてしまう者たちの不幸を極限的に描き切った一篇だった。

そして、その闇の世界にインボルブされてしまう者たちの〈生〉を根柢的に破壊し、或いは、変容させていく〈実存〉の有りようが、全篇を通して、一度も殺人シーンを直接的に表現することをしないが故に、却って、観る者に不安と緊張の共有を強いる「サイコサスペンス」のフラットな範疇を突き抜けることで、「人 間の敵は人間である」という基本命題を精緻に炙り出していく作品として、恐らく、一度観たら忘れない歴史的な映像に昇華されていったのではないか。

一貫して、この戦慄すべき映像を支配しているのは、ジョン・ドゥと名乗る一人の男。

このジョン・ドゥが支配する世界は、この男が惹起した猟奇的連続殺人事件によって、それを追う二人の刑事が、闇の中の限定スポットを懐中電灯で弄(まさぐ) る光線の青や、連日の雨天の冥闇(めいあん)の構図に象徴されるように、どこまでも深く澱む事件の異臭が放つダークサイドな風景を作り上げているのだ。

それこそまさに、ジョン・ドゥと称する男が支配する尖り切った映像の、特化された風景なのである。

この特化された風景は、最後まで映像を支配する男の「心の風景」であると同時に、この男によって支配され続けた二人の刑事の、存分に貯留されたディストレス状態を象徴する「心の風景」でもあった。

二人の刑事 ―― 「刑事セルピコ」を究極の理想像とするような、自らが拠って立つ、「悪を退治する正義漢」という自己像イメージを実感的に検証するために、まさに「運命の街」で惹起する難事件に、徒(いたずら)に感情剥き出しで対峙し、駆動する若いミルズ刑事と、若輩刑事の暴走を制御しつつ、深いペシミズムの人生観に染まっていながらも、事件に特段の関心を抱くに至った、定年退職を待望するばかりのサマセット刑事。

サマセット刑事に特段の関心を抱かせたのは、猟奇的なシリアルキラーの範疇のうちに収斂し切れないジョン・ドゥの犯罪が、「七つの大罪」をトレースするかのような性格を有していて、且つ、知的濃度の高い人物をイメージさせるジョン・ドゥが次々に惹起させる事件には、その行為の振れ方こそ違えども、ある意味で、サマセットと同様に、「この腐った世の中」(ジョン・ドウの日記)を厭う確信犯的臭気を嗅ぎ取ったからに他ならない。

 そんなジョン・ドゥが支配する映像の特化された風景が、本人の自首という、「確信犯」の「確信的行為」による、究極の「殺人ゲーム」の中で対峙してきた刑事たちの、その対極的な「心の風景」の極限にまで辿り着くことで、突如、眩く照り付け、アースカラーに彩られた、どこにも逃げ場のない乾いた大地を呑み込むような、異様にギラギラした太陽光線に捕捉される風景に変容するのだ。

それは、特化された風景を変容させた「確信犯」の自己完結点が、その「確信犯」の「確信的行為」のうちに晒された、理不尽極まる猟奇的連続殺人事件の終結点と重なることで、事件を追い続けた二人の刑事の理性を襲撃したばかりか、一方の刑事の自我を破壊する極限の様態をも炙り出してしまったのである。

震え、慄き、叫喚しつつ、究極の「殺人ゲーム」を自己完結させた男を撃ち抜き続けた青年刑事は、男が描いたシナリオをトレースしていくのだ。

その結果、最後まで「確信犯」の「確信的行為」のルールを貫徹した男の、常軌を逸した猟奇的連続殺人事件の自己完結点のうちに、とうてい言語化し得ない現実を白日の下に晒された青年刑事の自我が破壊され、無傷で生還できなかった者の悲哀の極限を露わにされてしまったのである。

一切が白日の下に晒された、このラストシークエンスの破壊力は、映像それ自身が放つ破壊力と化して、観る者の「心の風景」を拉致するパワーによって、物語の結末を知っていてもなお圧倒的な訴求力を持つに足る、サイコサスペンスの一つの到達点を極めてしまったようだ。

衝撃のラストシークエンスの破壊力をも演出したジョン・ドゥの狂気は、自分を「特別な存在」と考えるような、当該社会の法規範や倫理観を決定的に逸脱した自己基準の物語を、ミルズに自らを殺させること= 「殉教」によって自己完結するために、「不特定他者」の「群塊」=「現世の腐敗し切った世界」と、そこに蝟集(いしゅう)すると決めつけたであろう、その歪んだ射程に捕捉される「特定他者」を完全に支配し切ったという、捩(よじ)れ切った自己史の行程で途方もなく累加され、膨れ上がった欲望系の愉悦が極点に達する文脈において把握される何かであると思われる。

「我々は何とくだらない操り人形だ。世を気にせず、己を知らず、性に興ずる楽しさよ。道を外した我ら。地下鉄で、男が話しかけてきた。寂しい男の、つまらない天気や何かの話だ。相槌を打っていたが、くだらなさに頭痛がしてきた。思わず突然、その男にゲロを吐きかけた。男は怒ったが、私は笑いが止まらなかった」

 存分の悪意を吐き出す言辞で埋まった、この常軌を逸したジョン・ドゥの日記を読む限り、緻密な戦略・手立てを駆使する計画を立て、それをほぼ完璧に遂行した感の深い ジョン・ドウの歪んだ人格には、他者を騙すことで快楽を得るという性向が見られずとも、「無謀な衝動性」が同居していることが検証し得るだろう。

 恐らく、彼のパーソナリティ障害の基調は、オットー・カーンバーグ(精神分析医)が指摘するように、「自己愛性人格障害」を人格構造のベースにして、そこに「反社会性人格障害」の性格異常の気質が張り付いていると考えられる。その性格異常の気質を際立たせている描写があるので、ここに引用したい。

戦慄すべきラストシークエンスでの、ミルズ刑事との会話がそれである。

「お前は罪もない者を殺した」

このミルズの問いに、ジョン・ドウは興奮気味で捲(まく)し立てていった。

「罪がない?冗談だろ。あの肥満男。満足に立つこともできず、あのまま人前に出れば、誰もが嘲笑い、食事中にあいつを見れば、食欲は消え失せる。あの弁護士な ど、感謝状をもらいたい。あの男は生涯をかけて、強欲に金を稼ぐために、あらゆる嘘をつき、人殺しや強姦魔を街に放してた。あの女。心が醜くて、見かけだ けでしか生きられない。ヤク中など、腐った肛門愛好者だ。それに、あの性病持ちの娼婦。この腐った世の中で、誰が本気で奴らを罪のない人々だと?だが問題 は、もっと普通にある人々の罪だ。我々はそれを許している。それが日常で些細なことだから、朝から晩まで許している。だが、もう許されぬ。私が見せしめをした。私のしたことを人々は考え、それを学び、そして従う・・・私は憐れみなどしない。皆、神に滅ぼされたソドムの住民と同じだ」

自らが「七つの大罪」の名によって、死に追いやった被害者たちに対する、かくまでも尖り切った男の攻撃性には、自らを「特別な存在」と考えるが故に、その「特別な存在」によって特定された者は、皆、「罪深き者」とされ、「七つの大罪」という「罪源」の過剰性によって抹殺される不幸な運命から免れ得なかったのだろう。

そんなジョン・ドゥの常軌を逸した犯罪に翻弄され続けた、直情径行型の夫ミルズとペシストであるサマセットの二人は、「静」(サマセット)と「動」(ミルズ)による磁力の相互作用によって、「七つの大罪」に関わる事件の核心に迫っていくことによって、ジョン・ドゥの計画を狂わせるに至るが、これが、戦慄すべきラストシークエンスへの振れ具合を決定づけるという、理不尽極まるパラドックスの恐怖を開いてしまったのだ。

それにしても、デビッド・フィンチャー監督。凄い映像を世に放ってくれたものである。




JUNO/ジュノ(ジェイソン・ライトマン)


欲望の稜線を伸ばした結果、最悪の事態を招来しても、それを無化することなく、自分の〈生〉に繋いでいくとき、その状況下で選択し得るベターな判断を導き出し、それを身体化する。その身体化の過程でクロスした者たちとの関係を通して、他者と向き合い、自己を見つめていく。

 僅かスリーシーズンの間で凝縮された〈生〉の自己運動を通して成長する、一人の女子高生の物語 ―― それが、「JUNO/ジュノ」だった。

 何より本作が面白いのは、そこで提示された人間の根源的な問題を、アニメの導入で始まる軽いポップ系のテンポという衣裳に被せながら、ヒロインのほんの少しだが、しかし決定的な成長物語のうちに昇華させていく「戦略的映像」であったということだ。

 即ち、「生命の尊厳」の問題を、その能力の及ぶ範囲において内化する物語を構築し得たこと。それが、全てである。


この映画は、ラストシーンを除けば、一貫して非日常の世界を扱っている。その「非日常の9か月間」の中で、ヒロインのジュノが学習したものは何か。即ち、セックスし、妊娠し、産み、育てるという、「産」に関わる一連のプロセスには、由々しき責任が伴うこと。そして、その主体には、相当の覚悟と能力が求められるということだ。

彼女にとって第一のステップは、中絶することができたにも関わらず、産むという行為を選択したという事実である。

 なぜ、彼女は選択したのだろう。

 「爪」の一件である。これが、彼女の一連のプロセスの原点になった。情動系の推進力で、ボーイフレンドのブリーカーとコンドームなしのセックスを愉悦した結果、ヒロインのジュノは、「プロライフ」(妊娠中絶の合法化に反対する立場)の運動をしている同級生の一言(「あんたのベビー、爪も生えてるのよ」)によって中絶を翻意し、産むことを決意したのである。



冬が来て、超音波検査を受け、その写真を目視する彼女の意識の中から、「母性」とも思しき、胎児への強い関心が芽生えていくのだ。それは、わざわざ2時間も要して、養父母予定のミネソタの夫婦に、超音波検査の写真を見せに行ったことでも判然とする。

 そんな彼女が、劇的に変容していくのは春になってからである。胎児の生命音を感受したからだ。

 だから、それを報告するためにのみ、彼女はミネソタの夫婦(バネッサとマーク)を訪ねるに至る。しかし、そこで彼女は衝撃を受けた。

 「心の準備ができていない」という、マークの本音を耳にしたからだ。

 その辺りから、物語は、ジュノに最近接する者たちの変容をも映し出していく。

 「大人でしょ!」と、マークに放った彼女の一言は、まさに、彼女の意識が第二のステップにシフトしたことを物語るものだ。彼女はこのとき、「胎児に対する責任」を明瞭に意識するのである。

 それが、本作のクライマックスシーンに繋がった。「ジュノの号泣」である。

 然るに彼女は、その夜、思い直して、再びミネソタに車を飛ばした。バネッサへのメモを届けるためだ。彼女のこの目立った行動を支えていたのは、「真剣に子供を育てることを欲する人間がいる」という、そこだけは動かせない把握を保持していたからである。偶然だったが、ジュノは、子供と戯れるバネッサの姿を目視していたのだ。

「胎児に対する責任」という彼女の意識は、最後まで一貫していて、全くブレることはなかった。だから、自分が産んだ、「バネッサの子供」を抱くこともしなかったのである。

 彼女のこの経験的学習こそが、物語の中で描かれた、「ジュノの学習」の本質だったと言えるだろう。そして、もう一点。

 「非日常の9か月間」の中で、彼女が学習したもの ―― それは、「彼女なりに相応しい自己像」を構築したことである。自分が未だ、「社会的自立を果たしていない存在である」という自覚を、決定的に強化したことであると言ってもいい。

 自分は子供を産んだが、育てる能力がない。この認知を強化させたジュノは、その由々しき把握を、彼女にとって最近接する存在であったブリーカーと共有するに至るのだ。

 即ち、「自分が、今、最も大切な異性」としてのブリーカーの存在の認知である。ブリーカーとジュノの関係は、映像冒頭での、「セックスへの誘(いざな)い」と対極的に描かれることで、既に彼女が復元した「日常性」は、「非日常の9か月間」の中で精神的に通過してきた果ての、装い新たに更新された「日常性」を表現するに至ったのである。





ピアニスト(ミヒャエル・ハネケ)




母の夢であったコンサートピアニストになるという、それ以外にない目的の故に形成された、実質的に「父権」を行使する母との「権力関係」の中で、異性関係どころか、同性との関係構築さえも許容されなかった事態に象徴されるように、一貫して自己犠牲のメンタリティを強いられてきた娘のエリカは、ポルノショップと覗き趣味に象徴される、「男性性」の世俗文化とのクロスを介して、男根を喪失した「形だけの女」という自己像(「女性である自己」の現実 に対する嫌悪感)のうちに閉じこもることで、殆ど男性的な性格を身に付けた結果、既に、観念的にはマゾヒズムの世界への自己投入によってしか安寧し得ない 自我を構築してきてしまった。

 母の夢の具現の前では、「父」という、本来の役割を遂行し得ないエリカの父親は精神疾患を患い、まもなく、映像に登場することなく逝去するに至るが、中年女性になっても、「父権」を行使する母との「権力関係」だけは延長されていたのである。


ウィーン国立音楽院のピアノ科教授でもあるエリカが、まさにその「商品価値性」によって、予想だにしない快楽を手に入れる対象人格と出会ったのである。それがワルターだった。音楽院の大学院に入学した学生である。

若くハンサムなワルターに関心を持ったエリカが、豊饒な知的イメージを抱かせる、「変わり種の天才ピアニスト」への愛に惹かれるワルターの前で、自我の奥深くに隠し込んだ本性を吐露していくのだ。

 エリカが書いた、信じ難き内容の手紙を読むワルターの言葉が、嫌々ながらそれを代弁していく。

 「一番の望みは、手と脚を背中で縛られて、母の近くで寝かされたい。但し、ドア越しで母が近づけないこと。翌日まで、母のことは気にしないで、この家の 全ての鍵を持ち去り、一つも残さぬことこれをやると、僕に得が?もし私があなたの命令に逆らったら、ゲンコツで私の顔を殴って。なぜ母親に逆らったり、やり返さないか聞いて。そして、私にこう言って。自分の無能さが分ったかと

 自分の手紙をここまで読んだワルターに、エリカはSMの道具を見せて、更に言葉を添えていく。

 「電話を待つわ。全てあなた次第。嫌いになった?長年の望みだったの。そこにあなたが・・・命令するのはあなた。着る服も決めてあるわ」

 返す言葉を失ったワルターが、重い口を開いた。

 「病気だよ。治療しなくちゃ」

言うまでもなく、エリカのマゾヒズムの世界への自己投入は、「父権」を行使する母との「権力関係」の中で、一貫して自己犠牲のメンタリティを強いられてきた彼女にとって、それ以外にない防衛機制であり、今や自罰によってしか安寧に辿り着けない、屈折した自我の表現様態だったが、一切は、その本来の役割を果たせない父に代わって、「父権」を行使し続けてきた母との歪んだ「権力関係」の産物だったと言っていい。

 エリカの被虐性欲の根柢に横臥(おうが)するのは、コンサートピアニストになれないことで母を悲嘆に陥れた自己への加虐心理であるが故に、ワルターから「病気だよ。治療しなくちゃ」と言われても、「殴りたいなら殴って」と反応するばかりだったのだ。

彼女の母に対する承認欲求もまた、初めて知った青年との身体感覚のリアリティの前で微妙な誤作動を見せていく。母と縺れ合い、抱き合って、就眠に入ろうとしたそのとき、彼女は突然、母親の上に覆い被さっていくのである。それは、エリカの中で累加されてきた屈折した感情が、封印し得ない性衝動となって溢れ出たのだろう。

 彼女には、向かっていく対象人格が母以外に存在しないこと。そこに、彼女の悲哀の極みがあると言っていい。

夜も更けて、ワルターは、エリカの家を唐突に訪れた。追い返そうとするエリカの母を押しのけて、ワルターは、エリカの望み通りの行為に及んだのだ。

 殴りつけ、蹴り上げていくワルターの加虐行為に、悲鳴を上げるエリカ。

 「お願いだから止めて」

 そこに、殴られ、蹴られ、着衣に血を滲ませた中年女がいる。エリカは、自分が求めた「愛情表現」の行使によって受けた痛みの前で恐怖し、拒むのだ。そして、エリカの生身の肉体の中枢を抉(こ)じ開け、ノーマルなセックスに及ぶワルター。

 しかしここでも、女は身体を経由する異性愛の生身の感覚に届き得ず、そんな態度を見た男もまた、「早く帰れってことか」と反応するばかり。それでも「寸止めの美学」とは無縁な、ごく普通の〈性〉を愉悦する男は、精嚢に満たされたザーメンを放出するためのセックスを、たった1回の射精によって完結することで、女との初めての性行為を果たし得た。

 この日、スケートリンクの控室で認知してしまった、中年ピアニストへの現実。

 「お前が要求するなら、マゾの怖さを見せてやる」

 中年ピアニストに散々振り回されたことに対する憤怒が、恐らく、こんな尖り切った思いに結ばれて、ノーマルな〈性〉を求める青年に、抑え切れぬ情動の噴出を具現させたのだろう。

 豊饒な知的イメージを抱かせる、「変わり種の天才ピアニスト」への愛に惹かれたワルターの心理から言えば、謎多き年上の女にリードしてもらえるはずだっ た、蠱惑(こわく)的な「性愛」の行方が全く定まらない〈状況〉に翻弄されていて、それでも、そこに存在すると信じる、「奥深い熟女のフェロモンの魅力」を追い続けた果てに知った現実に幻滅し、一気に興醒めしたのだ。

「君のために忠告しておく。男を弄(もてあそ)ぶのは止めた方がいい。愛に傷ついても死ぬことはない」

女との関係に終止符を打ったかのような、ワルターの捨て台詞である。男の愛に応える術を知らない女だけが、そこに置き去りにされたのだ。

なお、男との愛の継続的な関係の維持を求める女は、男の変容を恐れつつも、覚悟を決めたかのように、翌日のピアノ演奏会に臨むのである。ナイフを懐ろに入れ、母と共にコンサート会場に現れたエリカは、ひたすら、ワルターの来場を待っていた。

「演奏を楽しみにしています」

 女友達らしき同世代の若者のグループに混じって、悪びれることなく、その一言を放ったワルターは、昨日までの捩(よじ)れ切った関係の噴出の一切が虚構のトラジディーであったかの如く、自分を待つ者を特段に意識させるに足る素振りすら見せず、恰も、全きを得てリセットさせた人格を軽快に開いて見せたのである。

一瞬にして擦過して行った男と、そこに置き去りにされた女。それは、ワルターとの関係の終焉を告げた瞬間だった。自らの胸を刺し、血を滲ませながら、コンサート会場を出ていく女。

 もう、彼女には、近未来の〈生〉に対する突破口になり得る、残された選択肢は完全に閉ざされてしまったのである。件の女の自罰志向の極点である、このラストシーンの構図こそ、「権力関係」の中で自己犠牲を強いられてきた屈折した自我の、それ以外にない一つの人生の閉じ方であったのだろう。

 少なくとも、「強いられて、仮構された〈生〉」のみを生きてきた彼女は、彼女の閉鎖系の観念の世界が、普通の欲望系に呼吸を繋ぐ青年の、そのノーマルな世界と折り合えない現実を認知することで、自分を呪縛してきたものの虚構性を自己の身体感覚のうちに触れてしまったのだ。

「自らの狂気を悟り、最後の一瞬、正気にしがみつく。それこそ、完全な狂気に至る直前の自己喪失を意味する」

 それはまさに、精神疾患直前の晩年のシューマンについて、ワルターにレクチャーしたエリカの言葉だが、それとなく覚悟を決めた彼女の行為をなぞっていく伏線であったという、如何にも文学的な着地点に落ち着くであろう。

 狂気の助けなしに為し得ないが故に、結果的に彼女は、殆ど自己喪失の感覚の中で、ギリギリの際(きわ)で正気にしがみついて、「強いられて、仮構された〈生〉」を抹殺したのだ。

見たくないもの、触れたくないものから眼を背け続ける者が、しばしば、安直に飛びつくチープな物語のズブズブの情感系言語の、その圧倒的な脆弱さを突き抜き、剥がし切り、そこで仮構された〈生〉の虚飾と欺瞞の様態を、恐らく、「白いリボン」(2009年製作)によって完成形に辿り着いたであろう、精緻に練られた高度な知的戦略によって炙(あぶ)り出していく映像宇宙の凄み。

 それが、「ピアニスト」だった。

 これはまさに、「変態映画」の「変態作家」というラベリングを張り付けることで、己が日常と切断することで安寧の境地に至るだろう、「約束された非武装なる虚構の城砦」への潜入という、数多なるお伽噺の幻想をこそ破壊したい集束的画像だったに違いない。

 そう思わせるに足る、存分に毒気含みの挑発的映像だった。



ドレッサー(ピーター・イエーツ)


本作は、第2次大戦下のドイツ軍の空襲の中で、有数のシェイクスピア劇団の老座長であり、自己中の名優である男に一貫して仕え、件の名優にとって唯一の 「前線」である絢爛たるステージにおいて、名優に100%のパフォーマンスを表現してもらうために影となって努めた「道化師」の、そのアイデンティティと誇りを巡る闘いの物語である。

 サーの称号が与えられているほどの名優に仕えた男の名は、ノーマン。「ドレッサー」(衣裳係を兼ねた、何でも屋の付き人)と呼ばれる、一級の「道化師」である。

 サーを劇団の「権力」の象徴とすれば、この「ドレッサー」は、「権力者」の主人を楽しませる役割を担っていた「宮廷道化師」と言っていい。然るに、「宮廷道化師」は、仕えた主人に直言し得る唯一の存在でもあったのだ。

 そんな男の、「権力」との闘いがピークアウトに達したのは、既に200回を超える「リア王」公演のステージであった。

ブラッドフォード公演のステージが開かれる只中に、ドイツ軍の空襲爆撃が出来し、事態は一転する。空襲の難に遭ったブラッドフォード公演で、サーは、恐怖感のあまり異常な精神不安に捕捉され、ノーマンはサーを病院に送るが、「リア王」上演の使命感の故に、サーは病院を抜け出して公演実施への意志を示すものの、明らかにサーの腰は引けていた。

そんな渦中で、「リア王」の公演の幕が開かれた。

 「我々は予定通り芝居を上演しますが、生き残りたい方は、なるべく静かにご退場ください」

 イギリス全土がドイツ軍の空襲を蒙る中、ノーマンの口上で、「リア王」の幕が上がった。しかし、空襲によって精神不安が沸点に達したサーは、肝心の舞台での登場場面に出られないのだ。彼はもう、シェイクスピア劇団の座長という名の、全き「権力者」の誇りすら失っていた。

 「戦って下さい!」

 ノーマンに押されるようにして、サーは舞台に出た。それは、「宮廷道化師」としてのノーマンの、アイデンティティと誇りを賭けた闘いのピークアウトでもあった。

「リア王」の有名な嵐の場面。

 ノーマンのアイデンティティと誇りを賭けた闘いの「前線」は、舞台裏で苛烈に展開されていく。

「もっと激しく!」

女性舞台監督のマッジの指示で、舞台裏のノーマンたちは、嵐の効果音を出すために、すっかり疲弊し切るまで頑張り通すのだ。

 打楽器を必死に叩くノーマン。

まもなく、「独り芝居」を終えた「リア王」が舞台裏に戻って来て、不満を爆発させる。

 「滝となり、竜巻となる嵐だぞ!それがチョロチョロ。そよそよ。樫の木を二つ裂く雷鳴と言ったのに!お前たちの雷鳴は、蝿の屁だ!私は嵐だ!」

 まるで先程の弱気が嘘のように、「火の玉」と化して興奮し切った男の熱演の情動が、男に「狂気のリア王」を延長させるのだ。それでもノーマンは、座長の熱演を褒め称(そや)し、機嫌を取ることを忘れない。

「ノーマン、ここにいてくれ。独りにしないでくれ」

 本音を漏らすサー

「疲れた。嵐はいつ収まるのだ・・・」

 サーの嘆息が目立ってきた。

サーと呼称させる男は、自らに忍び寄る死期を感じ取ったのか、出版予定の自著のタイトルにわが生涯という名をつけた。わが生涯への献辞を、ノーマンに読んでもらう。

 この本を、以下の人々に捧げる

 ノーマンは、思いを込めて、献辞に書かれている者の名を読んでいく。しかし、幾ら読んでも、そこに自分の名前がない。今度は、ノーマンの嘆息。失意が広がった。その思いを、傍らのサーにぶつけようとして、視線を向けたら、そこに笑みを湛えるかのようなサーの死顔があった。

 驚愕するノーマンは、完全に理性を失っていた。

 「一体、僕はどうなる?祭壇に小便をかけてやる!食事にさえ、ただの一度も誘われなかった。いつも後ろに追いやられていた。酒一杯奢らない。頭にあるのは自分のことだけ。僕はバカだった」

 既に遺体となった「権力者」に向かって叫ぶ、無力なる「宮廷道化師」。最後には、ノーマンの叫びは小さな嗚咽になり、遺体の上に自分の身を乗せていった。

「宮廷道化師」には距離感が存在しないのだ。「宮廷道化師」は、どこまでも、「権力者」である対象人格の能力の発現を補完するに足る、限定人格の存在価値しか持ち得ないのである。「宮廷道化師」は、「権力者」である対象人格によって相対化された、「宮廷道化師」としての、限定的な役割のうちにしか存在し得ないのだ。

ノーマンの言葉は、痛々しいまでに、その心情を吐露させるものだった。 

 「ここには素晴らしい美がある。ここはいつも春。苦しみも苦しみではない。孤独でもない。あなたと共にここで血を流す。でも、生きがいを求めている。誰も知らないけれど、僕なりに求めている。虫けらでも自分を捨ててはいない」

「一体、僕はどうなる?」というノーマンの叫びは、単に「宮廷道化師」としてのプライドの問題を超えて、己が自我の拠って立つ安寧の基盤を、一瞬にして喪失した者の深い悲哀を表現する何かだった。

あまり観られることがない本作は、一級の名画と呼ぶべき一篇だった。



4ヶ月、3週と2日(クリスティアン・ムンジウ)


厳格なリアリズムに徹した本作のストーリーラインは、妊娠中絶する当人のあまりに非自律的な不手際によって、より不都合な状況を作り出し、そしてその状況の逢着点が、強引に予約を取ったホテルの一室での閉鎖的状況であった。

 そこに今、三人の人間がいる。

一人は、やむなく妊娠中絶を引き受けることになった医師ベベ。あとの二人は女子大生。

 一人は、妊娠中絶を求める当人のガビツァ。そしてもう一人は、ルームメートであるガビツァから妊娠の事実を告白され、彼女のために金銭の確保(裕福な家庭の恋人からの借財)や、ホテルの予約等で奔走するオティリア。

 この闇の中絶手術を実施する空間であることの閉塞性によって、手術に関わる三人を閉じ込めたかのようなホテル内の一角の、息が詰まる圧迫感が漂う閉鎖的状況下で、この医師以外に頼るべき伝手(つて)を持たない二人の女子大生が、選択の余地のないその非武装の脆弱さを晒していた。

 そんな二人の弱みにつけこんで、彼女たちを心理的に威圧し、不条理な「取引」を強いる中絶医の男ベベが支配する、限りなく澱んだ空気の中で、本作の最も重要なシークエンスが、そこに開かれたのである。

ベベは中絶する当人の表情がより沈み込んでいる顔色を見て、ガビツァを難詰(なんきつ)する。

 「何を期待していた?決心したから電話をしたんだろ?」
 「だけど・・・」
 「だけど何?」

 苛立つ感情を乗せて、ベベはすぐ切り返した後、相手に最も自覚させたい認知を迫っていくのだ。

 「これは遊びじゃない。違法行為なんだ。特に私は、より重い刑に問われる。真剣勝負だ。始めたら引き返せない。挿入後の経過に問題がなければ、出血して胎児が出て来る。その後がとても大事だ。出血がひどいから、手伝いが必要になる。部屋中が血だらけになったら困る。そのためのビニールシートだ」

自分が置かれている立場の困難さを相手に認知させたと信じた男は、ガビツァのお腹を触診する。正確な妊娠期間を聞くベベに、「多分」としか答えられないガビツァ。

 「4ヶ月過ぎると、罪が重くなるんだ。殺人罪で、5年から10年の刑になる。知ってたか?分ってるか。危険を冒すんだぞ。何か月であろうと、堕胎する医者がいるか?」
 「お願いです」とガビツァ。蚊の鳴くようなか細い声である。
 「低姿勢だな。だが、全ては金次第だ」とベベ。
 「払います!」とガビツァ。ここだけは明瞭に言い切った。
 「どうやって?幾らある?」とベベ。

それに答えられないガビツァの代わりに、オティリアが言葉を添えていくが、埒の明かない会話に、ベベは恫喝的な長広舌を繋いでいく。

「誰もが過ちを犯す。君に何も聞かなかった。名前も何も、私には関係ない。私は何も隠さない。自分の車で来たし、IDも受け付けにある。警察が来たら、真っ先に捕まる。自由を危険に晒している。家族があるし、子供もいる。その私が君を助けるなら、相当の見返りがあるべきだろ?それが私の考えだ。二度も言わせるな。君はどう思う?3000レイのために10年の危険を冒すとでも?そう思うか?私を物乞いとでも?はした金で満足するとでも?どうする?トイレに行く 間に答えを出しておけ。どっちが先に相手を?嫌なら私は帰る。助けを求めて来たのは君だ」

そこまで言った後、男は形式的な「トイレ行き」のために、その場から姿を消した。

「どうすればいい?あなたは何もしなくていい。手術はしてもらうとして・・・問題はお金」

 そう言い放って、ガビツァはオティリアの前に歩み出て、彼女から金銭を受け取ったのである。このとき、若い女の肌を求めた男の相手を、ガビツァは決断したかのようだった。

 そこに男が戻って来た。金銭交渉で埒の明かない会話に苛立つ男は、手術の当人であるガビツァに向かって、「金が用意できたら連絡を」という捨て台詞を残して、その場を立ち去ろうとした。

 「待って。今日、やりましょう」とガビツァ。慌てて男を引き留めにかかったのだ。
 「医者は君か?」とベベ。

 男は自分の置かれた優位な立場を、ここでも相手に確認させようとしている。

「私にできるのは、責任を負うことです。彼女には何の責任もありません。提案が・・・」

 金銭の不足分を自分の体で贖(あがな)うことを申し出たガビツァの物言いに、いかにも自らが男の欲望の犠牲となるという被害者意識丸出しの感情を読み取って、男は関係の優越性の確認と、相手の「認知の過誤」をたしなめることで、その被害者性を無化しようとする。

「待って、お願いします!」

 ガビツァは最後まで懇願する女だった。

 「私を甘く見たら大間違いだぞ」

男のこの言葉によってカットが切れて、次のシーンはオティリアが服を脱ぎ、男が靴を脱ぐシーンにシフトしていた。その場に一人置き去りにされたガビツァは、部屋から走り去って行った。

そしてまもなく、「取引」の後の中絶手術が遂行された。

 「胎児をトイレに流すな。詰まるからな。塊でも粉々でもダメだ。犬が掘り出せる所に埋めるな。きちんと包み、バスで高層ビルまで行って、10階まで上がって、ゴミ捨てシュートに投げ込むんだ」

男がそう言って帰った後、ベッドに横たわるガビツアと、彼女を横目に見て沈黙を守るオティリア。

 「ありがとう・・・」

 カビツアのその一言に、オティリアは答えず、詰問する口調で責め立てていく。無自覚なカビツアに対する、彼女の鬱積した憤懣が沸点に達したようだった。そこに映像の勝負を賭けただあろう、この25分間にも及ぶ長いシークエンスは閉じていく。

女子大生ガビツァには中絶以外の選択肢を持ち得ず、且つ、その闇の中絶を引き受けるに足る医師が他に存在しない限定的状況の中枢に、その男がいるからだ。そこには限定的空間における、限定的な時間の中で形成された心理的な権力関係という厄介なものが、紛う方なく存在すると言っていい。だからそこでは、男の欲望を最大限に達成し得るための「取引き」=ビジネス以外の関係様式が成立しようがないのだ。

男はそのような相手の「抵抗虚弱点」(人格が抱える最大の弱み)を見透かしているから、限りなく自分の欲望戦線の許容域値を上げることが可能であった。だから男は、この状況の中で相手を一貫して恫喝しながらも、その支配的時間の隙間に、「いい加減にしてくれ。そんな不順なら医者に行きなさい」とか、「自分の行動の責任は自分で取れ。バカバカしい」などという類の拒絶のポーズを巧みに出し入れすることで、相手の不安を必要以上に駆り立て、その心理をどこまでも自分の律動感の中でコントロールし、決して自分のリスクを高めないための関係情況を作り出してしまったのである。

僅か3カットの長回しの描写で、本作の作り手は、この閉鎖的状況の中に、凄惨なまでのリアリズムを貫徹し切った映像を構築してしまったのである。



夜と霧 (アラン・レネ) 


ナチスの台頭で米国に亡命し、その後、東独に生活の拠点を設け、東独の国歌をも作曲したユダヤ人、ハンス・アイスラーが作曲した、詩的でありながら、時には軽快で、淀みのないBGMに押し出されるように、カラーで記録された平和で牧歌的な戦後の〈現在〉と、 瓦礫処理の如く、ブルドーザーで死体の山を無造作に埋めていく、異様なまでの非日常の酷薄の実写を繋ぐ〈過去〉の風景をクロスカッティングさせていく、あまりに有名なこのドキュメンタリーは、どこまでも強烈な主題提起を持つ「映画性」の枠を崩さない程度において、〈時代状況性〉の落差を強調することで、風化させてはならない問題意識の堅固な継続力の保持を、観る者に問い続けていく ―― それが、ヌーベルバーグの映像作家の一人である、アラン・レネ監督による「夜と霧」だった。

 ナチスが残した記録映像を巧みに利用することで、「見える残酷」の極点とも言うべき、戦争犯罪を告発したドキュメンタリーの一篇の衝撃度の強さは、人間の死体を「物体」として処理される酷薄の実写の異様さにおいて際立っていた。

 舞台俳優出身のフランスの映画俳優、ミシェル・ブーケのナレーションが、クロスカッティングされた映像を、声高にならないギリギリの辺りで繋いでいく。

「静かな風景。カラスが飛び、野焼きに煙る畑。車や農民の通る街道。楽しげなリゾート地の隣に強制収容所があった。アウシュヴィッツ、ベルゼン(ベルゲン・ベルゼン強制収容所)、ダッハウ(ミュンヘン郊外にある強制収容所)など、どの村もありふれた村だった。今、収容所跡にカメラを手に訪れる。雑草が血の滲む地面を覆い隠す。もはや、鉄条網に電流は流れない」

 これが、一見、長閑な映像へのナレーションの導入だった。

「1933年。機械の行進。一糸乱れぬ行動。全国民が協力する。収容所建設に業者が群がる。利権に賄賂が飛び交ったのだ。このときまだ、労働者たちや、ユダヤ人学生たちは遠くにいて、既に収容先が決定しているとは知らずに生きている。建物は住人を待っている。彼らは各地で検挙された。貨車に乗せ、収容所へ。ミスや偶然で、リストに加えられ、収容所に運ばれる人もいた。鍵を掛け、封印された列車。飢えと渇き、窒息と狂気。必死の落とし文。死者も出た。次は 夜と霧の中。同じ線路に日は落ちる。カメラは何を求めて歩くのか。死骸の山の傷痕か。或いは、殴られ、運ばれた囚人の足跡か。別世界に来たようだ。衛生上の名目で裸にされ、屈辱に耐える」

 この辺りから、流麗なナレーションと寄り添えないような、衝撃的な記録映像が連射されていくのだ。そして、強烈な主題提起を持つ「映画性」を内包させて、最後のナレーションが一気に押し出されてくる。

 「カポも将校も言う。命令に背けない責任はない。では、誰に責任が?冷たい水が廃墟の溝を満たす。悪夢のように濁って。戦争は終わっていない。 今、点呼場に集まるのは雑草だけ。見捨てられた町。火葬場は廃墟に、ナチは過去になる。だが、900万の霊が彷徨(さまよ)う。我々の中の誰が戦争を警戒し、知らせるのか。次の戦争を防げるのか。今も、カポが、将校が、密告者が隣にいる。信じる人、信じない人。廃墟の下に死んだ怪物を見つめる我々は、遠ざかる映像の前で、希望が回復した振りをする。ある国の、ある時期の話と言い聞かせ、絶え間ない悲鳴に耳を貸さぬ我々がいる」

「ホロコースト」を、「ある国の、ある時期の話」に封印してはならないというメッセージこそが、このドキュメンタリー映画の最も中枢的なテーマであることを、観る者は知るに至るのである。

「良心」の正体は自我である。

 私たちの自我は、その「強さ」や「豊かさ」を内側にどれほど固めていても、それを支配する関係が存在し、その関係が閉鎖的で特殊な環境の内に成立すればするほど、そこに形成された「システムの力学」に捕縛されやすいという、厳然たる事実を否定し難いということだ。

 それは、私たちがいかに権威というものに弱いか、自らに与えられた役割を無防備なまでに演じてしまいやすいか、ということを明瞭に示している。

ゲシュタポのユダヤ局長であったアイヒマンは、紛れもなく正常だったのだ。彼の少年期はとても気が弱く、真面目そのもの。ナチスに入るまでの青年期は、平凡なサラリーマン生活を送っていた。その真面目な生活はナチスに入ってから、より真価を発揮する。彼は絶対服従のシステムに、ひたすら従順に従ったのだ。その結果、誰よりも、多くのユダヤ人を屠る張本人となったのである。

アウシュヴィッツ収容所所長のルドルフ・ヘスも、彼の残した手記でも検証されるように、その生真面目で実直な性格故に、数え切れないほどのユダヤ人を焼却炉に送った者の一人であった。その回顧録によると、聖職者の家庭に生まれた彼は使命感が強く、厳しい父親からの教育を受けた思春期の自我の内に、命令に従順に行動する真摯さだけが突出していたとも言える。

 SS(ナチス親衛隊)の最高指導者であるヒムラーに至っては、その生来の動物好きな性格もあって、ユダヤ人の処刑に立ち会うのを嫌ったほど。彼もルドルフ・ヘス同様に、厳格なカトリック教徒の教えを受けて育った事実は重要であるだろう。

彼らを狂わせたのは、彼らが所属した「絶対的な組織」であり、その組織が作り出した「我々だけが正義である」という、いつの時代でもお馴染みの物語だった。「絶対正義」の前には、「絶対悪」しか存在せず、従って、「絶対悪」は抹殺されねばならないという論理に至る。このような物語に支えられて、負性のシステムに嵌り込んだ自我は、そのシステムから下達される「絶対命令」に絶対的に従ってしまうのである。

 「アイヒマン実験」で、参加者の35%の者が450ボルトの電圧を、生徒役の者に加えなかったという事実の方が、私には寧ろ驚きである。どんな状況下に置かれても、コルチャック先生やコルベ神父のような人物が存在するということである。成熟した自我が堅固で健全な理念に支えられていれば、人間は悪魔の仲間に加わらないで済むということだ。

 しかし65%の者が、それを加えれば死ぬかも知れない電圧のスイッチを押したということは、やはり由々しき事態と言うより外はないのだ。人間はこれほどまで簡単に、「良心」を稀薄化させることができる存在なのである。

それ以外の選択肢がないという閉鎖的で、退路を奪われた苛酷な状況に身を預けないこと。少なくとも、それだけは人間学についての学習的な真理の一つであることは間違いないであろう。



激突(スティーヴン・スピルバーグ) 


余計なものを剥ぎ取った、サスペンス映画のシンプリズムの極致とも言うべき、本作の本質を狭義に言えば、追い詰められた主人公のドライバーに感情移入させられ、同化した観客が、ドライバーの極限的な心理状況、即ち、不安感 ⇒ 恐怖感を包含させる、特定の状況に対する心理的な準備状態である緊張感を、継続的に味わわされることによって生まれる、隙間のない「時間」を描き切ったことにある。

その隙間のない「時間」の中で形成された関係の枠組みは、追い詰められた主人公のドライバーと、「移動タンク貯蔵所」として、石油、劇薬等の危険物をも輸送する機能を持つ、攻撃的な「モンスター」と化したタンクローリーという限定的な構図のうちに収斂されていた。

まさに、その限定的な関係構図であったからこそ、そこで排除された一切の存在性の欠如が、「援軍なし」の恐怖を煽ることで、主人公のドライバーの孤立感が増幅される効果を生み出したのである。

ドライバーの孤立感が増幅される効果を、殆ど台詞のないシンプルな物語構成は、極限的な心理状況に追い詰められた主人公の心理を的確に表現していくことで、極めて完成度の高い映像を構築し得たと言える。

明らかに作り手は、このタンクローリーの存在そのものを、「絶対悪」と思しきイメージラインの中で仮構している。タンクローリーのドライバーの人格に同化したかのような、「悪意の象徴」として描かれているのだ。特定他者に対する攻撃意志を厳然と有する、そんな「悪意の象徴」であるタンクローリーの鉄壁の武装性が、端的に表現されているのが、その大型のボンネット型ローリーの形態にあると言っていい。まるでそれは、尖り切った存在体の相貌性を露わにする、異界なる世界に棲む「巨大な有機生物」であるかのようだった。

まさに、その「巨大な有機生物」が、この国に住む普通の市民の身体を食(は)んでいく恐怖こそ、この映画の本質を衝くものとなっている。

その恐怖は、以下の由々しき要件のうちに集約できるだろう。

第1に、相手の正体が分らないこと。
第2に、自分を特定的に狙ったかのような、相手の攻撃意志が理解できないこと。
第3に、細く伸び切った、どこまでも続く長いハイウェイを、ひたすら逃げるばかりの状況下に捕捉され、言わば、この国の乾いた広がりを持つ空間にあって、仮に、Uターンしても、追って来る事態をも想定することで、脱出の出口が塞がってしまっていること。

そして第4に、自分の置かれた苛酷な状況を、本作の登場人物の誰もが理解できないこと。そのことで、主人公の乗用車(プリマス・バリアント)のドライバーが、完全に孤立した状態になっているということ。

以上の要件の全てを充たしている厄介な事態が、「追い詰められし逃走者」の心を強烈に圧迫し、今や、「約束された死」を履行していく極限状況を招来し、断崖の際(きわ)に立たされたとき、「斃すか、斃されるか」という最後の、もう、それ以外にない究極の選択肢に流れていったのである。

従って、それが、スピルバーク監督の基幹メッセージであるか否かについては不分明だが、本作の物語構成の中で最も重要なポイントは、主人公である男の行動が変化したことに尽きると考えている。「Duel」という原題にあるように、「状況脱出」という選択肢を塞がれた男にとって、「決闘」=「戦争」の決意以外の行動選択を持ち得なくなったとき、内側から突沸(とつぷつ)した感情が、理不尽な状況に対する憤怒を噴き上げて、攻撃的意志のスイッチが入るに至ったのである。

それはまさに、「窮鼠猫を噛む」の心理であるが、言葉を換えれば、タンクローリーという「絶対悪」から逃避するのみという、男の自己防衛方略の有効性が自壊するに至ったとき、今や、それ以外の選択肢に流れ着く学習の極点にまで達したのである。

自らを守る手立てが、「どちらが生き残るか」と括った者の最大攻撃性への変換しかなかったのだ。それは、憎悪の感情が恐怖を突き抜けた瞬間だった。恐怖を突き抜けるほどの、殆ど捨て身の憎悪の感情が、男の自我を捕捉したのだ。憎悪の感情が男の自我を捕捉するほどに、タンクローリーという「絶対悪」によって、身ぐるみ剥ぎ取られてしまった理不尽な事態に対して、今や、理性的文脈の一切を自ら身ぐるみ剥いでしまったのである。

遂に、そこまで「追い詰められし逃走者」には、「どちらが生き残るか」という選択肢以外に残っていなかったのだが、状況を反転すれば、それ以外にない唯一の選択肢が露わになったことで、その選択肢に自己投入しやすくなったということなのだ。それは、血を吐く辛さの手前で、さっと引き返すことができる辛さをも突き抜けてしまったのである。

そんな覚悟で危機に自己投入したからこそ、危機を抜けられたのである。

思うに、人生には、「予約されない恐怖」というものが満ち満ちている。突入するにも覚悟がいるが、突入しない人生の覚悟というのもある。覚悟なき者は、何をやってもやらなくても、既に決定的なところで負けている。

プリマス・バリアントのドライバーは、決定的なところで負けなかったからこそ、鉄壁の武装性を有する、「絶対悪」と思しき「巨大な有機生物」であるかのような、尖り切った存在体が放つ、圧倒的な「予約されない恐怖」の時間の中枢を破壊し切ったのである。

決して厭味で書く訳ではないが、正当防衛のための発砲を合法とする、有名な「フロリダ自衛法」を持つ国の男たちは、「自分の身は自分で守れ」という絶対倫理に支えられているが故に、このような「予定調和の奇跡の逆転譚」に流れ着く以外になかったということだ。これが全てだった。

スティーヴン・スピルバーグ監督の才能を全開させた本作こそ、彼の最高傑作という評価も強(あなが)ち的外れではないかも知れないと思わせる秀作である。



ブラック・スワン(ダーレン・アロノフスキー)


かつて、バレエダンサーだった一人の女がいる。ソリストになれず、群舞の一人でしかなかった件の女は、それに起因するストレスが昂じたためなのか、女好きの振付師(?)と肉体関係を持ち、妊娠してしまった。

妊娠したことでバレエダンサーとしての夢が断たれた女は、その妊娠によって産まれた女児に対して、自分の果たせなかった夢を仮託する。バレエダンサーの寿命の短さを考えても、その夢を断つのに相当の決断力を要するだろう、齢28のときだった。

かくて、夢を仮託された女児は、心ならずも頓挫した女が描く、見た眼には、馥郁(ふくいく)たる香りが立ち込める物語のイメージラインに沿って、特化された人生の軌道が定められていく。

母となった女が、今や、そこだけは譲れない者の如く、貪欲に追い求める欲望の稜線に我が子を同化・吸収する行程を通して、決定的に頓挫した己が夢を心地良く再生させてくれるイメージラインを強化させていく。その女児もまた、バレエダンサーとしての道を歩んでいくのだ。それ以外の選択肢は捨てられてしまっているからである。

その辺りをテーマにした物語の定番的パターンは、往々にして、「苦労の果ての感動譚」という予定調和のヒューマンドラマになりやすいが、この危うさに充ちた映画は、その類のカテゴリーに収斂し切れない、一見、ハリウッドお得意の「驚かしの技巧」の連射によって、観る者に恐怖感を愉悦してもらう、サービス満点 のゴシックホラーとも思しき展開を繋いでいくのである。

映像が、このような展開を繋ぐに至ったのは、青春期に入ってもなお、自傷行為を止められないヒロインの心象風景が、白鳥と黒鳥を一人で踊り分ける、チャイコフスキーの有名なバレエ音楽・「白鳥の湖」のプリマドンナの座を射止める技巧を有しながらも、王子を誘惑する悪魔の化身・黒鳥が放つ官能的表現力を持ち得ないばかりに、振付師のトマから、「全身官能的表現者」に化け切るという困難なテーマを要求されたことで、その要求を内化・具現する内的葛藤のプロセスが、自我分裂の危機にまで及ぶ凝縮した時間を露わにしていったからである。

言うまでもなく、子供の自我を作るのは母親である。母親がいなかったら、母親に代わる大人が代行する。この関係構造は、いつの時代でも、どこの国でも相当程度の普遍性を持つであろう。

この母子の関係もまた、母親が娘の自我を作り上げた。しかし、限度を超える「過干渉」によって形成された娘の自我は、明らかに顕在化された強制力の縛りの中で、いつしか自己不全感を常態化させていた。自我の空洞を埋めるに足る情動系の氾濫を、合理的に処理し切れないまま、内側深くに押し込める以外に術がなかったのである。これが、思春期以前の、この母子関係の本質的様態であったと言えるだろう。

母親に対して反駁することが許されない自我は自在性と柔軟性を欠き、絶えず、物理的に近接する母親の視線を意識し、その視線に合わせる自己像を作り出していく。これを、私は「良い子戦略」と呼ぶ。「偽りの前進」とも呼ばれているものだ。

常に、母からの評価に過敏になり、この過敏さにエネルギーが必要以上に注入されるから、「自主性の獲得」という発達課題が先延ばしされることで、本来の生き生きした子供の無邪気さが削り取られていってしまうのである。同様に、周囲から孤立しやすいパーソナリティに陥りやすいのは、結局、孤独な親の自我の不全感に起因する代償行為として、我が子に「良い子戦略」を駆使させる振舞いを必然化してしまうのである。

言ってみれば、「過干渉」とは、絶対的権力を持つ親による、我が子に対する継続的で、強制的な人格支配の様態であると言える。だから当然、この関係は権力関係になる。権力を行使する母親の懐深くに捕捉された娘の自我は、その母親の視線を先読みし、そこで仮構された〈状況〉に同化していくのだ。

この母と娘の厄介な権力関係が、プリマドンナとしての幸運に娘が最近接したとき、徐々に、そして確実に揺動し、その歪んだ関係の振れ方はダッチロールの様相を呈していく。既に青春期に踏み込んでいた娘にとって、母親の強制的な縛りを、一定程度相対化できる腕力を手に入れていたからである。

然るに、その関係構造は、このような表層的な変容を具現しつつも、既にインスパイアされた娘の人格像には、どのように振舞っても簡単に無化し得ない、「欲望=悪」という観念系の文脈が張り付いてしまっていたから厄介なのだ。

この危うさに充ちた映画は、しばしば、観る者に、「愛しているよ」という母の習慣的言辞を、母の生来的な優しさと勘違いしてしまうような、ロジカルエラー (論理的過誤)を惹起させやすいギミックを駆使しつつ、偏頗(へんぱ)な様態を見せる、そんな母子の関係力学が物語を支配し切っていたのである。

娘の名はニナ、母の名はエリカ。

今まさに、内深くに抑圧してきた情動が激発的に噴き上げてきたニナは、母エリカのくすんだ蜘蛛の巣を解きほぐし、そこから全人格的に脱却しつつあったのである。「母に対する拒絶」を身体化したニナにとって、拒絶することによって変容する自己像の獲得の片鱗は、彼女の中の内的葛藤の産物である。

それは、幻覚・妄想の世界の中でのアナーキーな氾濫という形で顕在化されていく。彼女にとって、今や新人バレエダンサーであるリリーの存在は、自分のプリマの座を狙う邪悪なる人格でしかなかった。だから、彼女の幻覚・妄想の世界は、遂にリリーの殺害という、あってはならない激発的な外観を呈して発現されるに至った。

殺害したリリーの死体を素早く隠し込んだ後、「王宮の舞踏会」の欺瞞に満ちた幕が開かれて、「白鳥の湖」の第3幕のステージの中枢を占有し、ニナが演じる変換したプリマの、最も邪悪なる黒鳥がそこに立ち上げられたのである。邪悪なる人格を殺害することで、真に邪悪なる黒鳥と化したニナは、難度の高い課題設定のハードルを一気に突破し切って、「全身官能的表現者」の破壊力を自然裡に体現するのだ。

新しいプリマの誕生を歓迎する、一世一代のニナのステージは万雷の拍手に迎えられ、今このとき、ピークアウトに達したのである。

リリーの殺害までもが妄想の産物であることを認知したニナが、「自分を超えていけ」という難度の高い課題設定のハードルを遂行するには、自らを決定的に甚振(いたぶ)り、全人格に屠ることによって、抑圧された情動系を解き放つという戦略しか存在しなかったのだろう。

万雷の拍手で迎えられるニナを、客席から涙交じりに視認する一人の女。母エリカである。

この女のために人工的に仮構されてきた、「最も健全な自己像」を最終的に破壊するには、無意識の世界が誘導する幻覚・妄想という一種の逃げ場に潜り込み、そこで、既に顕在化させていた情動の氾濫を表現していく以外に方法がなかったのだ。

これは自死によってしか完結し得ない二つの大きなテーマ、即ち、「母に対する決定的拒絶」と、「全身官能的表現者」への破壊的行程を経由しての決定的跳躍と いう、最強のパフォーマーの身体化を具現し得る、最も危険な辺りにまで自らを追い込んだ者の映像的達成点であると言っていいかも知れない。

この映画は、人間の心の闇を如何に映像化するかという視座で構築されたと把握すれば、相当程度成就したと言えるだろう。



族の庭(マイク・リー) 

人間洞察力の鋭利なマイク・リー監督の厳しいリアリズムが、一つの極点にまで達したことを検証する一級の名画。

主に下層階級の家族をテーマにして、そこで呼吸を繋ぐ人々の喜怒哀楽を、恐らく、「様々な偶然性に依拠しつつも、〈自力突破〉なしに糧を得られるほど人生は くない」という視座で描き続けてきたと思われるマイク・リー監督の表現宇宙が、本作で最高到達点を極めたのではないか。とうてい映像によってしか表現し得ない、シビアなるラストカットで閉じる、本作のラストシークエンスの決定力の構図の提示の凄みに、身震いするほどだった。

そんなマイク・リー監督が構築した本作の基幹メッセージを、私なりに解釈すれば、「自分の人生に責任を持ちなさい」という把握のうちに収斂されるだろう。

即ち、本作は、単 に「憐憫」の対象人格として受容される行為の中で感受する、単に「寂しさ」でしかない甘え含みの「孤独感」が、正真正銘の「孤独」の恐怖のうちに対象人格 を搦(から)め捕ることで、今まさに、奈落の底に突き落とされたときの対象人格の崩壊感覚 ―― この解釈に止めを刺すのではないか。単に「寂しさ」でしかない甘え含みの「孤独感」を託(かこ)つ、その対象人格の名はメアリー。

ロンドンの某病院に勤める女性事務職員である。

そのメアリーに対して「憐憫」の 情をかけ、事あるごとに、彼女の「孤独感」を吸収し、浄化する役割を果たすのが、「地産地消」を意識下に据え、一定の収入が期待し得る市民菜園を熱心に勤 (いそ)しみ、規則正しい禁煙生活に象徴される、セルフメディケーション(自己健康管理)を継続させるような共通の価値観によって結ばれているが故にか、 仲睦まじい夫婦生活を40年にわたって延長させている中流家庭を、仕事と両立させつつ難なく切り盛りしている、極めて自立的な女性医療カウンセラー。

その名はジェリー。メアリーと同じ病院に勤めていて、医師と連携しながら、心理カウンセラーの仕事をこなす初老の婦人である。

物語は、現役の地質学者であるトムとジェリーの、人も羨む円満夫婦の生活拠点を中枢スポットにして、そこで拾われた日常的営為の中に、メアリーに代表される、「孤独感」を託つ者たちが、市民菜園に勤しむ休日に訪ねて来て、かの円満夫婦の人生経験豊富なアウトリーチによって慰撫(いぶ)されるという、至ってフラットなエピソードを繋ぐものだが、そこで選択されたエピ ソードが醸し出すリアリティの濃度の高さは、人間洞察威力の鋭利なマイク・リー監督の比類ない作家精神の独壇場の世界であった。

春から秋にかけての3季から、一転して変容する、くすんだ冬の寒々とした風景への一年を通して、特定的に拾いあげられたエピソードの終結点は、あろうことか、ジェリーの一人息子ジョーに失恋したことに端を発する、メアリーの心身両面の荒んだ風景に張り付く悲哀の内実が、その実存性の極点において決定的に炙(あぶ)り出されていく様態だった。

それまでは、円満夫婦の開放系の家屋が「駆け込み寺」と化す温暖系のスポットは、この日ばかりは様子が違っていた。そこは今、ジョーと、その婚約者ケイティを招いた、「親しき家族」というテリトリーによって仕切られた、特別なる食卓の宴と化す限定スポットだったのだ。


 「衝動的に来ちゃったの」

これまでもそうであったような温暖系のスポットは、そう言って、寒さに震えるメアリーを受容することを拒んだのである。

 「怒っているの?」とメアリー。

 「怒っているんじゃないの。あなたに失望したのよ」

はっきりと言い放つジェリー。

 「本当にごめんなさい」
 「理解はしてるわ」
 「寂しかったの。職場で顔を合わせても話しかけてもくれない。悲しかったわ」
 「これは私の家族なのよ。それは分って」

メアリーの存在が「私の家族」ではないという事実の認知を迫るような、ジェリーのシビアな物言いには、特段に毒気がある訳ではない。物事を曖昧にしないジェリーの、ただ単に、普通のスタンスの表現なのだ。

しかし、こんなとき、嗚咽する児戯性を露わにするだけのメアリーを抱擁しながら、ジェリーは言葉を繋ぐ。

 「自分に責任をもたなきゃ」
 「分ってるわ」
 「よく聞いて。誰か相談相手を」

自ら抱擁を解いたジェリーのアドバイスである。

 「必要ないわ」
 「あなたのためよ」
 「相談ならあなたに」
 「同僚に頼んであげる」
 「あなたがいれば大丈夫よ」
 「違うの。専門家の助けが必要なのよ。幸せになれるわ」

これまでのジェリーの親切の意味を把握できていないメアリーの依存的態度は、ジェリーのシビアな物言いによっても延長されているのだ。

メアリーに対して、彼らは露骨に「邪魔者」扱いをしないが故に、食卓の宴の中で、「私の家族」という名の4人の会話が弾めば弾むほど、却って、居場所の確保が難しくなる現実の疎外感を、メアリーはたっぷり味わうことになる。

映像提示された会話は、円満夫婦の学生時代の馴れ初めから開かれた。

トムが大学卒業後、2年間、地質調査のためオーストラリアで働いていた時代に、既に恋人だったジェリーが会いに来て、そこから7カ月間要して、二人で世界旅行を愉悦した思い出を語り合う夫婦の会話の中に、オーストラリアでの仕事の経験譚を差し挟むケイティの絡みには、今や、「私の家族」の中枢のポジションを 得た者の自然さがあった。

その間、トムとジェリーがギリシャにも立ち寄ったエピソードに及んだとき、ギリシャに行ったことがあるというメアリーに、束の間、話題が振れた。

 「浜辺のバーで仕事をしていた」

これが、殆ど口を挟む余地のないメアリーが放った唯一の言葉だった。彼女は、ギリシャでウエイトレスの仕事をしていたのである。今や、メアリーから、春夏の季節で炸裂したマシンガントークが完全にう封印されていた。

無論、「私の家族」という名の4人の会話の中で、メアリーを排除する悪意が撒き散らされていた訳ではない。それは、ほぼ価値観を共有する者たちで開かれる、「私の家族」という名の4人が囲む食卓の風景の、しごく等身大の風景なのだ。

その風景の中に、メアリーだけが決定的な疎外感を感受している。メアリーの疎外感を映し出すラストカットが極まった瞬間だった。

三木清が「人生論ノート」で書いたように、「真空の恐怖」を感受する疎外感情こそ、「孤独」の本質と言っていい。

従って、それまで彼女が振り撒いていた「孤独」の言動は、明らかに、その言動を受容してくれる対象人格、即ち、職場の同僚であるジェリーの存在を前提にすることによって保証された、言わば、単に「寂しさ」でしかない甘え含みの「孤独感」でしかなかったということである。

言わずもがな、ジェリーの限りない抱擁力の源泉は、共通の価値観によって結ばれている仲睦まじい夫婦生活が、拠って立つ自我の安寧の基盤になっていたことの余裕と、心理カウンセラーという自らの職業意識から自給し得ていたこと。しかし、その枢要な部分が、メアリーには理解されていなかった。

ジェリーの直截(ちょくさい)な言葉のうちに表現されている文脈こそは、他者の人格の独自性と自律性を尊重する「個人主義」思考スタンスのストレートな反映であって、自分勝手に幻想を抱いて、都合のいいときだけ訪問して来て、愚痴を零すだけのメアリーの「利己主義」の負の情動系の氾濫に対する、シビアだが、今やそれなしに済まない状況下における抑制系の言辞であると解釈すべきだろう。

「個人主義」という基幹的価値観と遥かに乖離した、メアリーの自我の救い難い脆弱さと、異性観における児戯性が招来したであろう自堕落な生活への顕著な劣化の様態。もう、そこには、他者の人格の独自性と自律性を尊重する「個人主義」の思考スタンスに起因する、特段の感情を交えないアウトリーチの許容範囲を逸脱した、メアリーの自己統制の劣化の様態が極まった風景の残像しか、ジェリーの射程に収め切れなくなっていたのである。

この映画の完成度の高さは、季節の変化と、人も羨むべき生活を繋ぐ円満夫婦の価値観を対比的に映像提示することによって、ラストシークエンスへの決定力が、より鮮明に描かれていたことに尽きるだろう。

世の中が悪いのではない。一切の根源は、「自分の人生に責任を持つこと」を継続的に構築できない、脆弱なる人格総体の問題のうちに還元されてしまうのである。

マイク・リー監督は、かくまでにシビアな、リアリズムのラインを寸分も崩すことなく、優れて心理学的な映像を構築し切ったのである。


ダンサー・イン・ザ・ダーク(ラース・フォン・トリアー)


人生の重量感を拾い上げる「ヘビーなミュージカル」の構築を目指した映像は、観る者の情動を激しく揺さぶるものだった。そのメタファー抜きの直球勝負を厭わないメンタリティから分娩されたのが、「セルマ」という、抜きん出て愛情豊かな人物像であった。

 ここに、そのセルマと、トレーラーハウスを安く貸与してくれていた、隣人の大家である警察官のビルとの、印象深い会話がある。

 恐るべき疾病に捕縛されたセルマの、告白的な会話だ。

 「最初から分ってたの。私の眼が遺伝すると・・・なのに産んだのよ」
 「強い人だ」とビル。
 「強くないわ。耐えられなくなると、ゲームをするのよ。工場で働いていると、機械が色んなリズムを刻み始める。すると夢の世界になって、音楽が始まるの」

 セルマは、その後、ゲームと呼ぶミュージカルの話に触れて、その思いを吐露していった。

 「最後の曲は聞きたくないわ。ラストの合図は嫌。子供の頃に思い着いたの。最後から二曲目が始まると映画館を出てしまうの。そしたら、映画は永遠に続くでしょ」

 こんなセルマの生き方を、「愚昧」であると決め付けられるのか。「現実に耐えられなくなったとき、生に耐える手段」として、「ほんの1、2分、ミュージカルに出ていると空想する」だけの特化された彼女の行為を、果たして、訳知り顔なモラルの視座で現実逃避と嘲罵(ちょうば)して、切り捨てられるのか。その行為は、かつて「サウンド・オブ・ミュージック」を演じることになっていた練習と時を同じくして、「人生最大の目的」に辿り着こうとしている、「夢と現実の交差地点」であるとは言えないのか。

 「セルマは過酷な現実世界で、ささやかな喜びを見いだし、それを抱きしめる」

 本作の作り手である男の言葉だ。

苛酷な現実世界をゲームに内化する能力を持つ彼女は、充分に、人生のアーティストであるとは言えないのか。紛れもなく、この能力の発現は、それ以外にない、彼女なりの適正サイズの自己防衛戦略のリアルな様態であるだろう。仮に、その個性的な防衛戦略の発現を現実逃避と言うなら、なぜ、現実逃避することが指弾されねばならないのか。

 大体、苛酷な現実世界の不断の攻勢からギリギリに耐えている自我が、それを破壊されずに済ますに足る唯一の手立てを発見し、その戦略的な具現化を延長させている時間を現実逃避と指弾するほど、私たちの自我は鎧の如く堅固であると考えているのか。それこそ、人間の根源的脆弱さを認知し得ない度し難きオプチミズムではないのか。

「音楽、歌、そしてダンスで構成される虚構の世界への思慕と、現実の世界への思いやりを併せ持っていることである」

 このように、彼女が創り出すミュージカルは、他のミュージカルと全く違って、「映画から拾い集めたメロディ、セリフ、ダンスを現実世界の中に見い出して、融合させる」のだ。

 だから、これは現実逃避ではない。それよりもっと崇高なもの。アートである、と言っていい。これは人生と渡り合っていくため、そして、「人生を自らの中に取り込むためにセルマの精神が求めた手段なのである」

 「ヘビーなミュージカル」の構築を目指した男は、そのような文脈の中で確信を深めるに至ったのである。ヒロインのセルマは、日常の風景を自らの中に取り込むので、彼女の空想による、「ミュージカルシーン以外はリアルでなければならなかった」ということ。この設定が重要だった。つまり、「現実世界の不完全さや醜悪さが映画の甘美な世界をさらに輝かせている」のである。

 本作では、この二つの危うい世界がパラレルに描かれていた。彼女のミュージカルは、「伝統と本質が衝突するパンク・ロック」であると言えるだろう。それは「伝統の破壊ではなく、基本に立ち返る動きであるが故に、彼女が許容する唯一の暴力だった」のだ。だから、彼女の感情の迸(ほとばし)りは、音楽のみで表現されることを必至にする。

 「歌はセルマにとって自己の内面との会話なのだ」

 ヒロインの日常的光景を、極度にリアルに描く「スーパーリアリズム」に徹したため、ロケを敢行し、「小道具」の使用もなかった。

「人間の行為は理屈通りにいかないのだ」

 男は、そう言い切って止まなかった。当然過ぎる把握である。

 従って、ミュージカルのシーンに移るのは、ヒロインのセルマが苛酷な状況に置かれたときに限られていた。ビルの家を訪ね、愛児ジーンの眼の手術費用を取り返すために、混乱の中でビルを誤殺してしまうセルマ。理性が抑制機能を喪失した彼女の、このときの限界状況下で現出したのが、三番目のミュージカル・シーン。

 「何もかも悪い方にいく。バカなセルマ。時間を下さい。涙を流すだけの。心臓の鼓動が乱れるだけの。それだけの時間があれば許されるでしょうか。心から悔いています。私は仕方なくやっただけ」

 苦衷(くちゅう)に喘ぐセルマのミュージカルの風景は、男が「自己の内面との会話」と呼ぶには、あまりに痛々しいものだった。この作り手である男は、「愛の殉教者」としてヒロインの〈生〉の有りようを極限まで描き切る映像を、ほぼ確信的に創出しているのである。

 このことは、絞首刑を延期しようと思えば可能だったのに、新たな弁護費用にジーンへの手術代を充当せねばならないという現実を知ったセルマが、冤罪を晴らす一切の努力を放棄する重い決断を経て、理不尽な死への107歩を、優しい女性看守のサポートを受けつつ、震えながら歩んでいくラストシークエンスのうち に検証できるものだった。

なぜ、冤罪のヒロインが、これほどまでに追い詰められ、煩悶し、震え慄き、絞首刑の瞬間の構図に至るまでのカットを、木戸銭を払った観客に観せなければならないのか。

 「殉教者なら死ななければならぬ」

 それだけのことだ。男の言葉である。「刑罰というより復讐の色合いが濃い」死刑制度に対して、反対の立場を鮮明にする男にとって、「処刑シーンは神が監督に与えた贈り物」だった。

 男は、そう言い切ったのだ。男の名は、言うまでもなく、ラース・フォン・ トリアー。

コペンハーゲン出身の、しばしば物議を醸す発言を繰り返す、極めて発信力の高いデンマーク映画界の奇才である。自分の精神が病んでいることを隠さない男は、まさに「アート」のフィールドでこそ、その才能を開花させたと言えるのか。

 必ずしも、私のお気に入りの映像作家であるとは言えないが、しかし、それがたとえ本人の愚かさや愚直さに起因していたとしても、苛酷な状況に置かれた人間の 心理を中途半端に済ますことなく、それを極限まで追い詰めていくときの臨界点まで描き切る、その類稀な作家精神だけは認知せざるを得ないのだ。

 多分に厄介なメロドラマ的な感傷が張り付いていながらも、内面的掘り下げが希薄な「感涙映画」と切れている本作は、挑発的で、毒気含みの作家精神の極点にまで届くに足る一篇だった。苛酷な状況に置かれた人間の心理を中途半端に済ますことなく、それを極限まで追い詰めていく映像作家であるラース・フォン・ トリアー監督が、現代の「愛の殉教者」を奇麗事だけで立ち上げて、奇麗事だけのカットで済ます訳がないのだ。

 ヒロインをサディスティックなまでに苛め抜いた挙句、マキシマムに達した空想を摂取する情動の噴出の中で殉教させる。容赦ないのだ。特定他者への「愛の殉教者」であることによって、セルマは底知れない情動を噴き上げて生き抜き、そして、それ以外にない硬着陸点を選択することで死に抜き、昇天していったのである。

 確かに、そこにはエゴが存分に張り付いているだろう。しかし、そのエゴを指弾できるほど、私たちは崇高なのか。気高いのか。

 トリアー監督は、日常の中に溢れる雑音を音楽に変容させていく能動的才能によって、限界状況を突破し得るような極端な人物造形をすることで、自らが招来させた苛酷な状況による、自縄自縛に陥った魂の極限性を、「何かを作るのではなく、既にそこにあるものを探っていく」という強い思いのうちに、まるでそこだけはドキュメンタリー的な筆致で描き切っていたのだ。